第76話 草の絨毯、鳥のさえずり、君との夏休み

 兄ちゃんは内臓を吐き出すような咳をする。

 喉からごぼっと全部出てきちゃいそうな咳。

 でもその咳は、ここ藤木町に来るとカクンと減る。だからずっとこの町に住めば良いのにって子ども心に思っていた。

 その咳はあまりに苦しそうで、聞いているだけで、いつかその喉にあるものが兄ちゃんの息を止めてしまうんじゃないかって心配だったから。

 でもその場合、この恐ろしく何もない、本屋もアニメイトも映画館も100円ショップもない町に引っ越すことになるのはイヤだなと、これまた子ども心に思っていた。


「じゃあごめんね、今日も行こうか」

「いいよ。病院にいるより全然楽しいし」


 俺、野沢太一のざわたいちは母さんの言葉に頷いた。

 そしておばあちゃんから渡された焼きたてパンを持って車に乗り込んだ。

 焼きたてのパンからは香ばしい香りがしていて、眠れない夜に繋いだ手みたいにほんわりと温かい。ここにあるだけで、間違いなく安心する温度。

 いますぐ食べたほうがふかふかで美味しいのは知ってるけど、コウくんも楽しみにしてるから持っていく。

 母さんもパンの匂いをクンクンと嗅ぎながら、


「ん~~~。美味しそうな匂い。やっぱり水よ、水。こっちは水の次元が違うわ」

「水道水がうまいのが分かる。だって昨日食べたカップラーメンが美味しかった」

「あ~~、わかるっ。味噌汁とかも美味しいのよね。いや、ほんとうに藤木町は水が美味しいわー」


 だから、東京にいるときはいつだって顔色が悪い兄ちゃんも、ここでは楽にすごせるのだろう。

 でも父さんは東京でしか仕事ができないし、長期の休みをここですごすのが精一杯なんだろう。

 俺は夏と冬の間だけ来るこの町を、わりと好きになっていた。

 母さんは信号がない交差点を注意深く見ながら、


「友達出来たって?」

「うん。近くの子で、コウくんって言うんだけど、絵が上手なんだ」

「良かったわね。あの辺り、もう本当に何もないけど、おじいちゃんも絵が好きだし、楽しいかなって」

「うん。絵の描き方も教えてくれるし、楽しいよ。でも……いいの? ばあちゃんはそんな所行くなってめっちゃじいちゃんディスってるけど」

「いいのいいの。あれはあれで。太一はゲームそんなに好きじゃないから、つきあってるのも飽きるでしょ」

「たまにする程度でいいよ、ゲームは。長くすると飽きちゃう。それよりはコウくんと遊ぶ方がいいよ。なにより東京の子みたいにめんどくさくない」


 その言葉に運転していた母さんが俺のほうを見て眉間に皺をいれる。 

 しまったと思ったけど、後の祭り。言葉のチョイスを間違えた。


「んん~~~? 大丈夫? 学校? 塾?」

「大丈夫。イジめられてるとかじゃなくて、こう、東京の子、みんな強いから」

「太一だって東京育ちの東京生まれなのに?」

「わかんないけど」


 俺はそう言って窓の外を見た。

 別に東京の毎日がイヤなわけじゃないけど、みんなの全部が強いって、藤木町から帰ると分かる。

 何かをしてないと駄目な感じがして、楽しくて幸せじゃないと駄目な感じがして、それを競うように見せてくる人たちがちょっと苦手なんだ。

 そんなに嫌いじゃないけど、ここと比べると好きじゃない。そんな微妙な気持ちを正しく言葉に出来る力なんてない。

 母さんは兄ちゃんのことで必死で、俺のこと見られてないってばあちゃんに言われて落ち込んでたから、余計な言葉をいいたくないのに失敗した。

 それに俺はほんとうに藤木町が好きなんだ。

 藤木町は海沿いの町で、基本的に人が少ない。それだけでだいぶ心が平和。

 じいちゃんの家がある太田村はここから車で40分登った山の中にある。

 ばあちゃんの弟さんの家なんだけど、渓谷の隙間にある静かな村だ。

 向こうにいって、また戻って、右に左に。横に川を見ながら上っていく景色が俺は結構好き。

 じいちゃんの家はとにかくデカくて、建物が三つも四つもある。敷地が広くてどこまでが家かも分からない。

 そのうちのひとつにじいちゃんは住んでいる。

 そこは靴のまま入れて、天井が高くて大きな絵を描く板が置いてあって、油の匂いが充満している。

 吹き抜けの上に寝る所があって秘密基地感がハンパない。大きな縁側から川が見えていつも半端なく太ったネコが寝てる。

 俺はすぐにそこが好きになった。

 母さんは車を止めて中に入っていく。


「おじいちゃーん、すいません。パン置いておきますからー!」

「はいはい。気を付けて」

「すいません、じゃあまた夕方に来ますので。太一ご迷惑かけてませんか?」

「いいや、静かなもんだよ」

「申し訳ないです、毎日お願いしてしまって」

悠真はるまくんはどうかね」

「ここにいる間は元気なんですけどねえ」


 母さんとじいちゃんは少し会話して、母さんは慌ただしく帰って行った。

 兄ちゃんはずっと病院に入院していて、母さんがいない間はばあちゃんが見ている。

 ばあちゃんは、すげーじいちゃんの文句ばかり言ってて、それもあって早めに戻りたいんだと思う。

 何があったのかよく分からないし、聞いても答えてくれないとおもうけど、母さんが「いいのいいの」と言うときは、本当にだいたいなんとかなるから、それだけは信じてる。

 それに俺は、じいちゃんがそんな文句言われるような人には見えなくて、むしろ……。

 じいちゃんは俺の方を見て目を細めて、


「なんか昨日より大きくなった気がするな」

「一日で変わるはずないじゃん。でも俺さ、学校で一番小さいし、細いんだ。鶏ガラって言われる。僕も兄ちゃんみたいに身体が病気になるのかな」

「身体なんて弱くても生きていける。人はそう簡単に死なん。じいちゃんも毎日注射しとるけど、元気や」

「そうだね」


 俺はじいちゃんの川の流れみたいに静かで強い言葉が好きだった。

 その強い言葉とは裏腹に、ひとりで静かに絵を描いてる後ろ姿はどこか寂しそうで。

 俺がきたほうが、ほんの数ミリ元気に見えるんだ。

 縁側でネコの腹を撫でながら絵を描いていると、山の崖みたいな所からヒョイとコウくんが顔を出した。


「たっちゃん、今日も遊ぼうよ」

「コウくん、待ってたよ」

「昨日の雨で増水してるから、川で遊ぼ」

「いいけど、山登りはしたくないな、疲れるし」

「すぐそこ」


 そういってコウくんはヒョイと崖を飛び降りた。マントでもついてるみたいに軽くヒョイと。

 俺はあまり運動が得意じゃない。学校で数回ある体育の授業だって渋々なんとかやっている程度で、正直体育がある日は学校を休みたいレベルだ。

 でも太田村にいると空気の中に滝があるみたいに気持ち良くて、東京にいるより動く気になった。それにコウくんは急かさない。

 俺のことをどんくさいとか、おせーとか、身体が細せ~とか言わなくて、困ってたら冷静に助けてくれるだけで、話し方も淡々としてる。だからすごく楽なんだ。

 コウくんとのんびり向かった川の上流には小さな滝があって、雨で増水して地面の色んなところが川になっていた。

 それを見てコウくんが叫ぶ。


「これはかなり多い日だ。ここも、そっちも川になってる」

「すごいね。川になったり、地面になったりするんだ」

「春になったら葉がすげー伸びてきて畑になる」

「へえ~~。あ。やば。靴水没した」

「靴脱ごう。あの岩の上に置いておけば乾くから」


 そういってコウくんは靴を脱ぎ捨てて、そこだけ太陽から逃げられないように光り続ける石の上に靴を置いた。

 そこは地面がじめじめしていて、ぐちょぐちょしていて、スポンジのようで、それでもずっと同じ場所に立っていると沈みこむようなところで、まるで湿った草の絨毯。

 俺とコウくんは全身をビショビショに濡らして遊んだ。それでも太陽の石の上で転がると服はすぐに乾いて、鳥のさえずりを聞きながら家に戻った。

 俺はビニール袋の中から紙袋に入ったパンをひとつ取りだした。


「はい。パン、コウくんの分も作ってもらった。食べる?」

「たっちゃんが持ってくるパン、マジで旨い。こんな上手いパン、ここでは絶対に売ってない。お母さんが作ってるの?」


 そういってコウくんは俺が渡したパンを笑顔で受け取った。

 朝焼いたばかりだから、湿気が逃げるようにって、いつも紙の袋に入っている。

 コウくんは「フカフカですごい」と袋からパンを出して食べた。

 俺も東京でパンはたくさん食べるけど、ばあちゃんのパンは何か違う気がする。やっぱり水なのかな?


「ばあちゃんが施設で働いてて、そこの人たちと作ってるんだ」

「へえ。藤木町には色々あるんだな。自転車で行けるけど、帰りがキツいんだよな」


 俺はそれを聞いて喉にパンを詰まらせそうになる。


「えっ?! 嘘でしょ、藤木町まで自転車で行けるの?! 車で40分くらいかかるよ?!」

「それは山をうねうね上がってるからなんだよ。自転車でまっすぐに下りていく秘密の道があるんだぜ。行く?」


 コウくんは真顔で俺のほうを見た。

 俺はぶんぶんと首をふる。


「イヤだよ、帰りはそれを登るんだろ?」

「そうなんだよ。だから行きたくない」

「ここでいいよ。俺、太田村ほんと好き」

「配信でアニメは見られるようになったけど、映画の特典だけは無理なんだよな。そもそも映画館に行くのに車で二時間かかる。そこだけはいいよな、東京」

「アニメイトと映画館、それに本屋とかあるのが東京はマジで最高だって!」

「次のヒロアカの特典本、マジで読みたいんだけど。師匠の話なんだろ?」

「じゃあ来年来るとき持ってくるよ!」


 そう俺たちは約束した。

 まだ半乾きの靴を手に持って、鳥のさえずりを聞きながら川沿いを歩いて、たまに巨大な木を投げ込んだ。

 ぐるぐると周りながら流れていく木を追いながら走って、乾いた靴を履き、山肌をのんびり上がって、じいちゃんの家の縁側で昼寝した。

 ネコに飯を出せと顔を叩かれて起きる昼過ぎ。

 電波は道路にでないと入らないけど、一応持っておいてと渡されている古いスマホでネコの写真を撮ったけど、やる気がない腹しか写せない。

 午後はスマホ片手に、バエる場所を教えてやると言うコウくんと一緒に橋に向かった。山の隙間から見える青空と真っ赤な鳥居。

 それがきれいで、空気が気持ちよくて、思いっきり背伸びした。

 そんな夏休みがずっと続くと思ってた。



『まさか突然行けなくなると思わなかったよ。この特典本も捨てられなくてさ。俺ずっとコウくんに渡したくて取ってあったんだ』

「……ヒロアカの特典本。マジで?」

『もう会えないって分かってたけど捨てられなくて。持ってて良かった。まさかこんな風に再会できるなんてさ』


 そういって画面の向こうで野沢太一は笑顔を見せた。


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