第22話 体育祭ー風の中で

「えーーっ、こんな所入れるの?!」

「今日だけなのよ」

「わあああ、すっごーーい、わあああ、めちゃくちゃ高い~~!」

「穂華、走らないの、ちょっと待ってて」

「すごく気持ちがいいーー!」


 俺も背筋を伸ばすと湿度をまるで含まない五月の風が首筋を抜けていった。

 眼下にはさっきまでいて作業していた入り口が見えて、そこから伸びる列がどこまで続いているかよく分かる。

 ここは陸上競技場の一番上……屋上部分だ。

 いつもは鍵がかかっている所らしいんだけど、ここにあるポールにクラス旗を飾ることになっていて、その作業に来た。


「わあああ、すごい! 紗良っち、一周してきていい?!」

「いいけど、かなりあるわよ」

「じゃあ途中で帰ってくるかもっ! とりあえずあっちまでいってみたいーー!」


 そういって穂華さんは屋上を一周している通路のような道を走り出した。

 この部分は陸上競技場の一番上にグルリと道がある状態になっていて、単純に考えても一番大きな円周になる。

 「旗をあげるの手伝う!」といって着いてきたのに、ただ来たかっただけなのは間違いない。

 吉野さんは走って去って行った穂華さんを横目に、ポールの接続部分を開いた。


「じゃあ、ここから1年生ね。1-A、1-B……一応ポールの下にガムテ貼ってクラス名書いておいたほうが良いかもしれない」

「……了解。穂華さんもいないし、俺たちだけだよ。ちょっと休憩しない?」

「……そうだね。穂華も一周するならまだ戻らないかな」

「実はこれ持って来た」

「あ、食べたい。もう疲れたー」


 そう行って吉野さんは1-Aのポールの前にズルズルと座り込んだ。

 移動が多いと聞いて、ポケットにキャラメルを数個入れて持って来ていた。

 箱を開くと「わあ、懐かしい」と目を細めて吉野さんはキャラメルを取りだして口に投げ込んだ。

 さっき……外で吉野さんのお母さんや妹、それに婚約者一団に会った時の『違う世界』の空気があまりにすごくて、なんだか身体の奥に重たい何かが詰まったような感覚になっていた。

 ただ単純に俺が吉野さんの知らない顔……いや少しは聞いていたけど実際目の前にすると……圧巻の別世界。

 そこに立っている吉野さんは、あっち側ではなく、俺側の表情をしているように見えたんだ。

 俺は吉野さんのほうを向いて、


「……やっぱりさ、吉野さんのお母さんと友梨奈さんは、違う世界の人って感じがする。壁の向こう側。すごくそう感じたよ」


 吉野さんは俺のほうを見て目を細めて、


「うん。そうなの、私もすごくそれを感じた。今まで私ひとりだったから、私が変なんだと思ってた。そう言ってくれるのが嬉しいよ。中学までは友梨奈と同じだったから、まあもう、すごいの。友梨奈は足もめちゃくちゃ速くて昔からリレー選抜チーム。ダンスも上手で常にセンター。それが当たり前だと思ってた」

「いやいや、めちゃくちゃ特殊でしょ」

「だから言えなかった。体育祭なんて大っ嫌い。運動も大っ嫌い。友梨奈みたいに上手にできないもん」


 吉野さんの言葉を聞いていて、少し違和感を抱いていた。

 ずっと吉野さんは妹の友梨奈さんと自分を比べているけど、俺は……今横にいる吉野さんのことが誰より好きだから。

 俺は吉野さんの横から立ち上がった。


「吉野さん、俺たちも、穂華さんみたいにあっち側に走らない? 気持ちよさそう」

「えーー……仕事しないと」

「行ってみよう。俺と走ろう」

「すっごく遠くない? やだぁ。走るの好きじゃないの、苦手なんだもん、走るのなんて全然好きじゃないんだよ」

「行こう」


 俺は吉野さんに向かって手を伸ばした。吉野さんは「ええ……?」と戸惑いながらも、俺の手を握って立ち上がった。

 俺は細い吉野さんの指をクッと握り、ゆっくりと走り出した。

 吉野さんは走るのが苦手で好きじゃないと言っているけど、早いほうのグループに入る。

 それでもきっと友梨奈さんは一番だから、それではダメだと思ってるんだ。

 俺がどれだけ「全然早いほうだよ」と言っても、そんなのたぶん心に届かない。

 だって俺だって、それを言われてもあまり嬉しいと思わない。

 でも俺は最近吉野さんと居るようになって思ってたんだけど……。

 俺は横を走る吉野さんに小声で話しかける。


「吉野さんってさ、楽しい時はいつもスキップして、ジャンプするよね」

「え? 全く自覚無かったんだけど」

「バイト終わりの時、電車ヤバいときとかよくスキップしてジャンプしてる」

「えーー? 自覚ないーー」

「公園で遊んでさ、そのあとバイト先に行った時もスキップしてクルクル回って、それで走ってたよ、ヒールなのに」

「そうだっけ。えーー?」

「水風船、公園で作った時もさ、ずっと走ってたじゃん」

「そうかもーー。だって楽しかったんだもん」

「だからさ、走るのも運動するのも、そんなに嫌いじゃないんじゃない?」


 吉野さんは緩く走っていたが、俺の言葉に立ち止まった。

 五月の風が強く、それでいて優しく俺たちの間を抜けていく。

 そして吉野さんの髪の毛をザワリと揺らした。

 俺は再び走り出すと、吉野さんも続いて走り出す。


「俺もさあ、部活でタイム競ってた時はそんなに楽しいと思わなくて。友達と競ってどっちが速い、遅いってさ。それでタイムは伸び悩んで……全然つまんねー……と思ってた。でもさ、バイトで街のなか走り回って、それは本当に楽しくて。それで高校戻ってきて計ったらタイム上がってるんだよな、競技で走ってた時より。笑ったよ。吉野さんも、走るというか、身体を動かすのは、好きなんじゃないかなって思ってさ」


 言いながら走っていると、背中の服をギュワーーッと掴まれて転びそうになった。

 振り向くと吉野さんが俺の服を掴んで、唇を強く噛んでいた。

 あっ……この表情はこの前公園で泣かせてしまった時と同じで。

 俺は慌てて立ち止まった。

 吉野さんは唇を強く噛んだまま、ブンブンブンと首を振って表情を固くした。

 口を一文字に結んだ状態でブンブンブンブン首を振る。

 これ以上首ふると痛くなりそうなんだけど?!

 もうすぐそこに穂華さんがいるから、触れることも、これ以上近付くこともできない。

 吉野さんは靴紐を縛り直すために小さく丸まった。俺もその目の前に膝を立てて座る。


「……大丈夫?」

「そうだね。友梨奈と比べて苦手で、上手にできなくて、体育祭も来賓席のお母さんがイヤなの」

「そっか」

「確かに……辻尾くんといるときは走ってるなんて思ってなくて、遊んでた」


 そう言って吉野さんは靴紐を強く縛り直した。

 そして俺のほうを見て顔を上げた。目の前……20cmくらいの所に吉野さんの顔がある。 

 その目は真っ赤だったけど、泣いてない。さっき花江さんたちといた時のように無力じゃない……それでいて取り繕っているいつもの学校の吉野さんでもない、バイト先にいる吉野さんの表情だと思った。

 スッと立ち上がって吉野さんは背伸びをして、穂華さんに手を振った。


「よっし、穂華の所までよーいどん!」


 吉野さんは足取りも軽く、少し離れた所で待っている穂華さんの所まで、かなり速い速度で走って行った。

 それは遊んでるみたいで、羽が生えたみたいに軽くて。俺も少し全力を出して屋上通路を走ってみた。

 やっぱり身体が軽い、風が気持ちいい。


「紗良っち~~~~! 見て見て、ここから富士山見えるのーーー!」

「わあ、すごい。ビルの隙間から見えるのね」

「おお。知らなかったな。今日はマジで天気がいいな」

「気持ちがいいよ~~。あ、なんか甘い匂いがするっ!!」


 穂華さんはめざとく俺と吉野さんの周りをクンクンと匂いを嗅いでまわった。

 すさまじい嗅覚。俺はポケットから箱のキャラメルを出した。

 やったぁ~~! と穂華さんはそれをひとつ摘まんで口の中に入れて「やっほーーー!」と背筋を伸ばした。

 俺はキャラメルを1個取りだして、吉野さんに渡した。

 吉野さんはそれを笑顔で受け取ってポケットに入れて、穂華さんの隣で一緒に背伸びした。

 下の方には今登校してきたクラスメイトらしき人たちが見えて手を振っている。

 吉野さんは、


「あ、やば。もう登校時間じゃない? 旗をあげましょう」

「え? 紗良っちと辻尾っちで作業終わったんじゃないの?」

「やってないのよ、戻りましょう」

「もう、紗良っち~~~、珍しいなあ~~~」

「たまにはいいでしょう?」


 吉野さんは口元だけ微笑んで目を伏せて走り出した。

 穂華さんは吉野さんの腕にしがみついて、


「もちろんいいよお~~。穂華も旗揚げする~~~!」


 と走り出した。

 遠くで音楽が鳴り始めて体育祭の開始を知らせる。

 俺もふたりを追って屋上通路を走りポールに全クラス分の旗を揚げた。

 五月の風に旗は気持ちよさそうに揺れた。


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