第481話 スプレーと竜頭
【東京都港区 ホテルオークラ東京】
200メートルの巨神が、宙を舞った。プロテクターで身を守った人型の影、といった姿の闇の女帝は受け身を取ると幾つもの建物を押しつぶし、ホテルオークラ東京を倒壊させ、辛うじて立ち上がった。東京タワーから首相官邸までの間にあるあらゆるスマホには避難を促すアラートを出しまくっている。それでも退去しない馬鹿も少数いたが、女帝の力で強制転送した。だから死人は恐らくいない(と信じたい!!)が、それでも闇の女帝は追い詰められつつあった。コンピュータワールドから得られるパワーが低下し、アレスに圧倒されていたからである。
『ふはははははは!!どうしたどうした。さっきまでの威勢は!?』
『くっ……!!』
まずい。闇の女帝の背後、首相官邸まであと500メートルあるかどうか。200メートルの巨体では至近距離だ。
このままでは勝てない。闇の女帝が斃されれば首相官邸は破壊されるだろう。竜太郎は死ぬ。首相もだ。それどころかその光景は日本中、いや世界中に中継されるだろう。その光景を見た人間たちはこう思うに違いない。「もう駄目だ。おしまいだ」と。
だから真理は負けるわけにはいかなかった。真理の姿はカメラに映らせている。人間たちの味方をする妖怪がいる、と誇示するために。アレスも同様に映っている。これは人類の存亡をかけた戦いなのだ。
槍を受け流す。残ったパワーを注ぎこんでタックルする。組み付く。身体がバラバラになりそうだ。全身のデータ結合が緩み始めた。アレスの膝蹴りを喰らう。無様に転がる。また建物がたくさん押し潰される。この戦いだけでどれほどの人が家を失っただろう。それを想うだけでも怒りはふつふつとわいてくる。しかし怒りでは闇の女帝の力とならないのだ。自分はネットに履き捨てられた負の感情の化身でもあるというのに!!
『はははは。なかなか健闘したな。闇の女帝よ。だがそこまでだ。必死に戦ったあなたに敬意を表し、トドメは苦しまぬよう済ませてやろう』
アレスが、槍を振り上げた。
◇
【コンピュータワールド】
「うげえ。網野ー!!むっちゃヤバいって!!」
巨大な首が、30メートル四方のキューブを叩き潰した。
コンピュータワールドを睥睨する九つ首の竜は真理の電子怪獣だ。600メートルの巨体を制御するのは真理ではなかったが。その役目を現在果たしているのは法子だった。意識が二人分あるとこういう時便利である。
もっとも今は、役目に専念できる状況ではなかった。何十という数のキューブの形をした人工知能が押し寄せてきたからである。円卓が用意した補助戦力だ。数の限られる電子妖怪とは異なり、
「なんとかなんねーの、網野!?」
『無理よ、そっちでなんとかして!!』
法子の悲鳴に返って来た真理の返事がそれである。闇の女帝モードが入ってるらしいが今のところは正気っぽい。膨大な負のエネルギーが今も流れ込んでいるはずだが。
「あーもうちくしょー!!初心者なんだってば!!」
真理の中から竜を遠隔操作する法子だったが、ほとんど視点は自分自身が竜になったようなもんだった。圧倒的パワーで敵勢を蹂躙していく。しかし敵の頭数はこちらより多い。600メートルの竜の視界でも、見渡す限りのワイヤーフレームの都市には敵があふれていた。味方の電子怪獣はまばらにしかいない。防御範囲が人数に比して広すぎるのだ。どうすればいい!?
敵勢に呑み込まれようとした時のことだった。
『―――真理!!聞こえる?』
聞こえてきた声に聞き覚えがあった法子は、竜の頭の一つを使って顔を上げた。上の方にスピーカーが出現して叫んでいる。この声は真理の母親だ!
「圭子さん!?網野じゃなくて今こいつを操ってるのは私っすよ!日高法子!!無事だったんすか!?」
『法子ちゃん!?今東京で戦ってるのって真理なんでしょう?詳しい話は後、これを使って!!』
スピーカーの側に
『そいつを敵にかけて!!』
法子は言われた通りにした。スプレー缶の形をしたアイコンを竜の口でくわえると、敵の
効果は覿面だった。何しろ人工知能どもの半数が、突然同士討ちを始めたからである。
「これ……」
『
「すっげえ……」
一見してデタラメな落書きにしか見えないスプレー塗装だったが、明らかに人工知能どもは混乱しているようだった。さすがは闇の女帝の片割れとして真理と共に電子妖怪の世界に君臨していただけのことはある。
まだこちらを執拗に攻撃してくる人工知能もいるとはいえ、敵の圧力は大幅に減ったのである。
『私は味方にこれを配るわ。法子ちゃんと真理は戦いに専念して』
「は、はい!!」
◇
『あああああああああああ!』
悲鳴が、東京の中心に響き渡った。振り下ろされた槍の一撃に、闇の女帝が上げていたのだった。己の肉体を貫く槍に。
それでも、女帝は立ち上がろうとしていた。槍が貫いたのは、己の右肩であったから。咄嗟に回復した負のエネルギーの供給は、身を捻って致命傷を躱すことを可能としたのである。
『!!まだ力が残っていたか!おのれ!!』
アレス神が力を込めた。こちらも槍を掴み返す。ダメージは大きい。徐々にだが己の思考が暴力的なものに染まりつつあるのも感じる。負傷し、心が弱ったせいだ。遠からず負のエネルギーに飲み込まれる。長期戦はできない。
力を絞り出す。パワーが回復した今なら可能なはず。身体の内側から発光が始まり、全身に幾何学的な電子回路の紋様が浮かび上がる。背後に広がる
『何い!?』
アレスがうろたえる間にも、高密度で複雑な物体が自己組織化を開始。細長いそれらがデータで構築され、肉付けされ、たちまちのうちに実体化していく。
それは、竜だった。直線的な無数の機械でできた、学校の敷地を丸ごとふたつみっつ埋め尽くすような大きさの、三つ首の竜。
これが今の闇の女帝に出来る精一杯だ。コンピュータワールド側にある残り六つの首で女帝自身と三つの首を維持できる時間は十数秒に過ぎない。だが、アレスを始末するにはそれで十分だ!!
『やれ!!』
アレスを圧倒するほどに巨大な竜頭どもが、一斉に襲い掛かった。
『ぬおおおおおおおおおおおおおおお!?』
盾が嚙み砕かれた。槍がへし折られる。三つ目の首がアレスを食い千切ろうとする。そこへ、アレスの足と両手がかけられた。竜の口が閉じられない。力で拮抗しようというのか。何というパワー!そこへ第二の首が襲い掛かり、アレスが繰り出した思念の腕に食い止められる。第一の首がアレスの胴体に喰らい付いた。甲冑が軋みを上げ始める。アレスもありったけの神力を振り絞って対抗している。あと少し。あと少し!!
『我が分身たる
あれが何であれ、闇の女帝が打てる手はもうない。
星が青空の下で輝き出す。それはたちまち赤い光となり、そして地上へと撃ち下ろされたのである。凄まじいエネルギーの奔流として。
圧倒的破壊力が、闇の女帝を飲み込んだ。都市を破壊しかねないパワーが急速に、電子データで構築される女帝を分解し始める。女帝自身も必死で抵抗する。攻撃のエネルギーを無害なエフェクトへと変換。更には周囲数百メートル圏内にある電子機器が門を開き、エネルギーを吸い込んでコンピュータワールドへと逃がしていく。それでも防ぎきれない。
やがて、奔流が収まった時。
人間サイズに戻った女帝がただ一人、倒れていた。同じく神力を消耗し、人間サイズへと縮んだアレスを前にして。
両者の違いは立っていたか否かだけだった。
勝者となったアレスは、新たな槍と盾を虚空から掴み出す。
「見事であった。闇の女帝よ。よくぞ私をここまで消耗させたな。しかしあなたがこの戦いにおいて私から奪ったのは巨体のみよ。これだけ戦場の狂乱が満ちていればそれもいずれは回復する。私の勝利である」
槍が、再び振り上げられる。
それが振り下ろされようとしたその時。
強烈な弾丸の一撃が、アレスを襲った。矢除けの加護さえ貫いて。
「―――!?」
咄嗟に身を守ったアレスは射手を探した。すぐに見つかる。
「そこまでだ。生徒をそれ以上傷付けるというなら僕にも考えがあるぞ」
現れたのはこの戦いの実質的な敵将。
投石紐を携えた、山中竜太郎であった。
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