第178話 はじめてのおでかけ
何やら囲まれていた。
ないないが閉じ込められているのは小さな瓶である。それが置かれたテーブルの周りにいろんなのがいる。青い犬のぬいぐるみ。とことこと歩く人形。渦巻く空気と木の葉。転がるビー玉。おぼろげな幽霊みたいな奴。いろいろだ。
瓶の蓋が開けられる。「じゃ、仲良くしてね」と言って眼鏡の女が出ていく。大ピンチだ。
部屋の中を瓶から見回す。小さな和室だ。隅にはテレビが置かれている。
ないないは知らなかったが、東洋海事ビルヂングの一室である。室内にいるのは様々な理由で保護された小妖怪や、千代子の使役するごく下級の
妖怪は強大な力と人間並みの知性を備えた者ばかりではない。ごく小さく、世界の片隅で人間から隠れて暮らしているような者も多いのだ。人間に発見されたり、悪い妖怪の手下として使われているのもこの辺が多かったりする。ないないも保護された個体と勘違いされて連行されてきたのだった。
周りの小妖怪たちが迫る中、ないないは悲鳴を上げると瓶から飛び出した。ビビッて後ずさる小妖怪たち。その隙にないないは、テレビのリモコンを担ぐと棚の裏に逃げ込む。とにかく何かを隠さないと気が済まないのがないないである。
奥で震えているないないを、じっと外から覗いている小妖怪たち。
どうしてこうなったんだろう。ないないは恐怖に震えながら頭を抱えた。
◇
【旧居留地東洋海事ビルヂング 図書室】
「できたー!」
ミナは叫んだ。
画用紙に書かれているのは覚えたばっかりのいろいろなこと。上から文江が覗き込んで来る。
「おーどれどれ?解の公式はもう導出できるかー。√の中がくしゃくしゃになってるのはなんで?」
「だって、"
「うーん。そうかなあ。さすが天使の子だねえ。虚数には拒否感が出るかー」
「?」
「あのね、ミナ。この世には見えないものがたくさんある」
「ある?」
「ええ。そりゃあもうたくさん。だからね。二乗してマイナスになる数だってある。目で見ても見えないだけでね。数学の凄いところは、そういうものを見て分かるように教えてくれること」
「そっかー」
「それにしても末恐ろしいねえ。まだ生まれて三か月も経ってないのに、自力で高校数学までたどり着いたか」
「ミナ、えらい?」
「えらいえらい。むっちゃえらい」
「やったー!
じゃあ壁にお絵かきしていい?」
「いいよいいよ。後で片付ける時手伝うのよ?」
「はーい」
ミナは文江が大好きだ。ママとおじいちゃんと静流の次くらいには。"りゅうたろ"とおんなじくらい。だっていろんなことを教えてくれる。こくご。すうがく。しゃかい。りか。えいご。りゅうたろもたくさん知ってるけど、文江はもっとすごいのだ。
文江が増えた。よっこいしょと椅子に座って書き物を始める文江と、ミナにくっついて一緒にいてくれる文江。お店にいる文江もいる。増えたり減ったりできる。凄い。ミナにはできない。
図書室を出ると、クレヨンで階段の壁に絵を描く。テーマは色々だ。今日は手足の生えたお裁縫道具と小人さんの戦いを描く。押し入れを開けたら喧嘩していてびっくりした。階段を上がりながらどんどん描いて行く。転んでズボンが破れた絵。ママが帰ってこなくて寂しかった時の絵。いろいろだ。
やがてお絵かきの時間が終わった。約束通り、片付けを手伝う。文江が壁の絵を摘まみ取ると、ミナは日記帳を広げる。そこにぽとりと落とされる絵。紙に張り付く。小さくなったそれは日記帳にちょうどいい大きさだ。ページをめくるたびに壁の絵が片付けられていく。たちまちのうちにすべての絵が片付いた。
「文江、すごーい」
「そうかなあ」
「ミナにはできないもん」
「そりゃあミナは私じゃないもんねえ」
「文江じゃなきゃできない?」
「できないできない。妖怪の力は一人一人違うもの」
「ふーん。ミナは何ができるー?」
「そうだねえ。人に褒められることしよっか」
「はーい」
そこでミナは大きなあくび。おねむの時間だ。
「さ。じゃあそろそろお昼寝しよっか」
「うん!」
◇
外の気配が静かになったのを見計らい、ないないは顔を出した。
室内では盛り上がった毛布が一枚。その周りでは他の小さい奴らも思い思いの場所で転がって寝ている。お昼寝だ。
そして見回した先には、小さなリュック。ここに来るきっかけになったやつだ。あれに潜り込めばきっと戻れるに違いない!
ないないはリュックに駆け寄ると、そおっと中に忍び込んだ。今度は見つからないよう、荷物の下の方に。
そうして、ないないは眠りに就いた。周り同様に。
◇
「ママー!」
午後の昼下がり。駆け寄ってきたミナの様子に、ノドカは微笑んだ。もう7歳かそこらに見える。年末には十から十二歳くらいにまでは育っているだろうとの見立てだった。
「おー。今日は何したのー?」
「うんとね、えっとね。お勉強して、お昼寝して、ご飯も食べて、遊んだよ」
「そっかー」
「ねー。ママー。今日は何の日か覚えてるー?」
「うん。覚えてる。お祭りだね」
「お祭りー」
ミナは大喜びだ。休日がつぶれた代わりだった。
「ママー。お祭りってどんなの?」
「えっとねえ。私も日本のお祭りは初めてだから分からないの」
「じゃあ初めて同士だね」
「ええ」
「すぐいこ!」
急かす娘にノドカは苦笑。
「まだだーめ。だってみんな揃ってないもの。大人と一緒に電車で行くの」
「ママ、大人じゃない?」
「うん。ママはまだ子供。ミナよりおっきいだけ」
「そっかー」
そう。ノドカはまだ中学生にすぎない。しかもここでは異邦人だ。コミュニティの協力がなければミナをまともに育てることなど不可能だろう。
「さ。みんな来るまで何して遊ぼっか」
そうして、母娘はビルの奥に入っていった。
◇
ないないはリュックから顔を出した。危険とわかってはいたのだが、様子が明らかにおかしかったのである。
外を見ればそこは高速で流れていく景色。部屋が動いている!
ないないは生まれて初めて、電車に乗っていたのだった。
やがて電車が止まり、人の波が出ていく。ないないが入っているリュックの主も手を引かれて出ていく。外もすごい人だ。何やらみんなワクワクしている。
左側に連れて行かれる。ふと横を見ると親に抱かれた赤ん坊がこちらをじー。っと見ていた。顔を引っ込める。そおっとまた顔を出すと、赤ん坊はもう違う方を見ていた。
やがて人の波に乗り、高架の下から出て曲がると細くて傾斜のある道。それを抜けた先の門を潜ると、別世界が広がっていた。
お祭りだった。
物凄い熱気。闇を退ける光の洪水。様々な食べ物のにおい。行き交う人々のざわめき。部屋の中で生涯を過ごすないないには縁のない世界だ。
凄かった。
ないないのリュックを背負う子供も、ものすごく興奮していた。あっちに走りこっちへ戻り、落ち着きというものがない。それを周りの人間たちは根気強く付き合っていた。
そして、鳥居の向こう。海の方からやって来る大きくて金ぴかのお神輿。何十人もの男たちが担ぐそれの圧力に、ないないは圧倒されていた。
それがふたつ、神前までを往復していったのである。
ないないにとっても子供にとっても驚きの時間はあっという間に過ぎ去り、帰りの電車に一行は乗った。
やがて。リュックの底で、ないないは深い眠りに落ちていった。
◇
「あら?」
その日の夜。
眠りに就いたミナのリュックを改めていたノドカは首を傾げた。中から落書きのような小人姿の小さな妖怪が転がり落ちて来たからである。最近は慣れたものだ。妖怪を見たくらいではびっくりすることもない。何しろたまり場のビルにはこれくらいの奴は幾らでもいる。荷物に紛れて来たのだろうか。
すやすやと眠った小妖怪。どう見ても悪い奴ではなさそうだった。起こさないようにそっと摘み上げると、押し入れの奥のタオルケットの上に寝かせてやる。明日たまり場に返しに行けばいいだろう。
押し入れをそっと閉めたノドカは、部屋の電気を消した。宿題を片付けておかねばならない。彼女はまだ中学生だったから。
静かに、夜も更けていった。
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