第174話 大百足と人の唾液
酸の雨が降り注いだ。
その威力はすさまじい。命中した田畑から白煙が上がり、大きく溶解して陥没。呼吸も困難な有様となったのである。戦車でも丸ごと溶けてしまうかもしれない。
それを紙一重でかわしたのは、一台のバイク。雛子が操るそれは田畑を踏み越えながら攻撃を回避したのである。
後ろに乗った刹那が振り返る。
「もう一発来るぞ!」
「くっ!!」
伝承の大百足は龍神をも倒す強大な妖怪である。幽体と言えども溶かされる危険があった。ひょっとしたら大丈夫かもしれないが、実験するには賭けるものが大きすぎる。何しろ奴は、透明な雛子たちの位置を正確に把握しているのだから。
大百足が身を縮めた。それはたちまちのうちに伸ばされ、そして口から大量の酸が噴出する。
着弾地点を予測して急ハンドル。予測された未来位置に正確に命中した酸を、バイクは回避した。だんだん狙いが正確になっている。まずい。
だから雛子は切り札を発動させた。このバイクの元の持ち主が使っていた妖術を行使したのである。
エンジンが不完全燃焼を開始し、凄まじい勢いで排気口から煙を吐き出し始めた。視界を遮る煙幕であり、強力な毒ガスでもある排気ガスを。
同時に雛子は大きく旋回すると逃げ回るのをやめた。大百足の足回りを狙う。奴は大きすぎる。そこが狙い目だ。真下から煙幕をまき散らして視界を遮れば動きは封じられるだろう。
幸運なことに次の攻撃も外れる。いい傾向だ。急な方向転換に対応できなかったのだろう。このまま奴の脇を通り抜ける。
そのままであったならばうまくいったであろう。しかしそうはならなかった。大百足は胴体の中ほどを浮かせると、一気に落としたからである。
衝撃で波打つ地面。
「―――!?」
バイクは、宙に投げ出された。乗っていた雛子たちごと。
◇
刹那は目を覚ました。意識が飛んでいたようだ。まだ生きているということは、前後不覚だったのは一瞬だったはず。
起き上がろうとしたところで押さえつけられる。口がふさがれた。シーっという小さな声でどうするべきかを理解。
仰向けになったまま上を見上げると、横倒しになった板塀が家屋の壁にもたれかかっているのが分かった。隙間から夜空が見える。
そこを、ゆっくりと巨大な百足の一部が横切っていった。
「―――!!」
敵はどうやらこちらを見失ったらしいのが分かった。今自分たちは瓦礫と化した集落に身を隠していることも。見つかれば一巻の終わりだ。
着衣を引っ張られる。身を起こす。雛子が瓦礫を透過するのに合わせて刹那自身も透過した。物凄い力だ。ほとんどの幽霊は他者まで幽体化させる力は持っていないと聞く。
そうして何軒か移動した先でまた潜伏。大百足がよそを向いた段階で、刹那は雛子に尋ねた。
「どうする?」
「この辺りの人は、人払いでみんないなくなったわ。竜太郎さんか静流くんたちのところまで行かなきゃ。ここから珠城山古墳がどっちか分かる?」
「たぶんあっちだ。森を突っ切った方が早い」
「分かった」
そして通り抜けようとした民家の一軒で、ふたりは足を止めた。何故ならば、その一角で身を小さくした男性を見つけたからである。何故人払いがかかった場所に!?
ふたりの疑問はすぐに氷解した。彼の片方の足はぐるぐるにギブスが巻かれていたのである。夜間急には移動できなかったのだ。自宅療養中だったのだろう。人払いはあくまでも人間の心理に働きかけるもので、移動できない者を追い出すことはできない。
震える彼は、壁を透過してきたふたりを向いて小さく悲鳴を上げた。
「ひぃっ!?」
見えてはいないはずだが、気配で察したのだろう。通りに沿った家屋を妖怪たちが破壊していく様子を目の当たりにしただろうから。それは恐ろしい体験だったに違いない。よくも発見されなかったものだ。
その時、衝撃が起こった。つい先ほどまでふたりがいた場所に大百足が頭を突っ込んだからである。探っているのだ。より大きな悲鳴を上げる男性。まずい。気付かれたかもしれない。
刹那は、雛子の空っぽのフードの中を見た。彼女は頷くと刹那の手を離す。
「ば……ばけもの……っ!?」
そうして姿を現したふたりを見て、男性はいやいやと首を振った。その顔は恐怖で歪み、涙と鼻水でくしゃくしゃになっている。そんな彼に雛子は優しく近づいた。
「どうか落ち着いて聞いてください。私たちは味方です。助けに来ました。ですから協力して。あいつらをやっつけるために」
「来るな!化け物!!」
雛子はそこで足を止めた。そうして今度は刹那を振り返ったのである。「お願い」と。
刹那が男性に近寄った。そうする間にも破壊音は大きくなっている。近づいてきているのだ。急がねば。
十分に近づいた時点で、刹那は腰を落とすと目線の高さを相手に合わせた。男性の視線は刹那の左腕に向いている。呪符がいくつもこぼれ落ちている、人ではない体へと。
「だいじょうぶ。ボクたちは人間の味方だ。あなたを助けたい。あなただけじゃあない。たくさんの人の命がかかってる。だから助けて。ボクたちは人間じゃないからあいつを倒せない。けれどあなたは違う。外の百足は人間の唾液に弱い。だから勇気を出して。あなたの唾液をボクたちに分けて欲しい」
「あ……」
わずかに男性が落ち着きを取り戻したように見えた時だった。雛子が叫んだのは。
「伏せて!!」
ムカデの頭が横殴りに部屋を襲い、突き崩す。粉塵が部屋の中に充満する。
視界が晴れた時、空では大百足の頭部が、こちらを見下ろしていた。酸を噴き出そうとしている!!
刹那は渾身の力でそれを睨み付けた。巨大な力が膨れ上がり、そして百足の肉体の一部が石化を開始していく。
そう。今まさに噴射されようとしていた酸が石と化し、口を塞いだのである。
「―――!?」
もがき苦しみ出した怪物がのけ反った。その隙に刹那は叫ぶ。
「唾液を!!奴を射るんだ!!」
跪く。相手が強力すぎる。いつまでも邪眼は通用しない。抵抗されている。
刹那の背後では、雛子が手を、男性の前に差し出していた。手袋で包まれたそこへ、男性は戸惑い、怪物と刹那の背を何度も見返す。
「早く!!もうもたない!!」
男性は意を決し、唾を吐いた。即座に雛子はそれを矢じりへ塗り付けると、取り出した弓につがえる。もはや経を唱える暇はない。真正面から射る。
それは、こちらに振り下ろされた大百足の頭部に命中すると、今度こそ脳天を貫通する。目標を逸れ、隣の民家へと倒れ込む大百足。
「―――む、無念……」
最期にそれだけを呟き、大百足は息を引き取った。恐るべき敵であった。
生き延びたことに安堵の溜息を洩らした雛子は、刹那の方を見た。力尽きたか、床に倒れている。
それを助け起こした雛子は、刹那の眼球が真っ白になっていることに気が付いた。力を使いすぎたのか。
「……やったな」
「ええ。あなたのおかげ」
「そうか……」
「動ける?」
「無理だ。何も見えない。目を使いすぎたらしい」
「分かった。安全な場所まで運ぶから隠れて。そっちの人も」
雛子は、男性を背負い刹那を抱き上げると立ち上がった。この、怪力の幽霊にとってはその程度何でもない。
壁を透過した雛子は、森目指して歩き始めた。
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