第172話 無辜の人々とこの世界
【兵庫県神戸市中央区三宮 旧居留地東洋海事ビルヂング 食堂"季津菜"】
『第一陣、送ってきました』
食堂のテレビモニターに真理が顔を出した。たった今、オーナーたち数名の増援を送り届けて来たところだ。彼女の能力は神戸から奈良まで複数の妖怪を瞬時に運ぶことを可能とする。
現在のたまり場は指揮所と化していた。電話やタブレット、タコ足配線で接続されたノートパソコンによって各所への通信が交わされ、中央のテーブルでは現地の地図を指しながら何人もの妖怪や人間たちが現在の状況を更新している。
千代子が救援に飛んだ今、指揮を執っているのは火伏と文江であった。
「了解だ。あっちの状況はどうだ」
『酷いです。こっちの陣取ってる古墳の周りに妖怪が殺到してますけど、突破したグループもいるかもしれません』
「そこまで手が回らないか、クソ」
それは、すでに民間人の犠牲者が出ている可能性があるということだ。そしてそれを救う術はない。何しろ陣地一つを確保し続けるだけでも現状では手一杯なのだから。現地で暴れている妖怪たちを完全制圧するには、少なくとも数百人規模の増援が必要だろう。現状安否が確認できているのは静流とノドカだけで、竜太郎や雛子、マリアがどうなったかは分からない。もう死んでいる可能性すらあった。
現在コミュニティの仲間たちはたまり場目指して集まりつつあるが、まとまった数になるには三十分では足りないだろう。想定していたのは最悪でも能見一族との交渉失敗及び脱出する竜太郎たちの救出であって、殺戮に狂った大妖怪ばかりが百近く、というのは想定外にもほどがある。奈良でも連絡の取れた複数のコミュニティや隠れ里で妖怪達が準備を整えているが、最も早いグループでも現地到着まで一時間はかかる。大阪や京都、和歌山、滋賀、三重等のコミュニティは更に時間がかかるだろう。もちろんそれらには真理以外の電子妖怪が待機しているところもあるが、運ぶべき戦力が揃っていなければ何の意味もない。
「どこかに妖怪がまとまっているなら一気に送り込めるんだが」
『まとまったところ……火伏さんの地元とかどうです?天狗がたくさん住んでるんですよね』
「ああ。比良山の里には電話で連絡を入れたから集合はすぐ済むだろうが、ネット回線がない。電話回線自体、術で昔の奴を現代の規格に無理やり適応させてる。真理ちゃんは電話回線でひとを運べるか?」
『マジですか。今時ネットがないなんて……』
「機械文明に適応できる奴はだいたい都会に出てきてるからな。残ってるのは機械音痴な年寄りだけだ」
絶句する真理と渋面を作る火伏。ちなみに比良山の天狗の隠れ里で最高齢なのは火伏自身だが、普通に現代文明に適応して暮らしている。他の天狗がやらないのはできないからではない。古い妖怪はテクノロジーがなくても生きていけるから、学習しない奴はいつまでたってもしないだけである。
「今回の件が片付いたら、何としてでもネットを導入させてやる」
『ぜひそうしてください。今は間に合いませんけど……』
打てる手が尽きかけた時のことだった。皆の端末の画面に、そのメッセージが表示されたのは。
>>『お話し中失礼。提案がある。聞いて欲しい』
そのハンドル名を見た真理は息を呑んだ。何故ならば彼とは長い付き合いだったからである。
相手のことを知らない火伏が尋ねる。
「誰だ。あんたは」
>>『私はシグマ=トリニティ。現在奈良県桜井市で起こっている極めて危険な状況を憂慮している。あなた方に協力させて欲しい。
真理。君は私の能力を知っているはずだ。今聞いた話では、まとまった兵力が比良山の隠れ里に存在し集合中とのことだった。問題は迅速な輸送手段のはずだ。
火伏次郎。その隠れ里には、ドアはあるだろうか?引き戸でも構わない』
「ああ。あるにはあるが。家がたくさんあるからな」
>>『なら問題ない。私の力で運ぶのには差し支えない』
「本当か!?」
>>『もちろんだ』
合意は成された。
西日本最強の電子妖怪にして正義の味方、シグマ=トリニティは高らかに宣言する。
>>『火伏次郎。扉の向こうへ向かうのだ。無辜の人々とこの世界を守るために』
◇
【奈良県桜井市穴師 珠城山古墳】
「ああもう。こいつら、多すぎるわね!」
砲声が響いた。
千代子の砲撃は威圧感抜群だ。古墳に攻め寄せている敵勢の大半は銃火器を知らない古い妖怪である。その威力と音、得体の知れなさで奴らは攻めあぐねているようだった。
しかし彼女の対戦車ライフルは有効射程五百ないし千メートル。こんな接近して使うことを想定されていない。古墳の上から離れた敵を狙撃するために持ち込まれたのだ。
他に防御に参加しているのは犬神千尋とクリスティアン。彼らは強いが敵も同じくらい強い。静流と合わせて四人では、敵が登ってくるのを阻止するので精一杯で減らすなどほとんど不可能だ。それでも防衛できているのは地形の優位のおかげだが。陣地が必要という竜太郎の提案は正しかった。
背後を振り返る。ノドカが地面のくぼみに保護した子供を入れ、雑木を操って上から枝葉で覆い隠している。気休めだがやらないよりはマシだ。子供が逃げ出す心配もない。さっき真里に連れ帰らせればよかったのだがそれどころではなかった。とてとてと走って逃げようとしていたせいだ。
発砲する。弾倉が空になる。アタッシュケースから次の弾倉を取り出す。七発入りの弁当箱みたいなそれを装填。このペースで撃てば今日明日中に在庫はなくなるだろう。部品も弾も、今はもう生産されていない。ビルの倉庫から引っ張り出してきた古い奴だ。千代子が扱えるのは昔とった杵柄と言うやつである。そろそろ新しい火器を買い時かも知れない。
そうこうしているうちに、不味いものが見えた。馬鹿でかいムカデが森の向こうの集落から駅に向けて進撃中なのだ。わらわらと小さい奴らも。ここからなら対戦車ライフルで狙い撃つことは可能だが、大型商業ビル並の図体相手ではどこまで通用するか。それ以前に、今は身の回りで手一杯。
そろそろ、人間たちも気付くことだろう。この危機的な状況に。
そこで、ノドカがスマホ相手に何か怒鳴っている。戦闘音で聞こえないのか。もう一台のスマホでメッセージ書き込みに切り替えた。何を話していたか千代子は尋ねる。
「どうしたの!?」
「それが―——20人ほどまとめて送る目途が付いたって!」
「そうなの!?それならあの辺の集落に突入しそうな奴らを阻止させて!!」
「わ、分かりました!!」
千代子の指示は、奇跡のように正確に、相手へ伝えられた。
◇
【奈良県桜井市巻野内地区】
やけに胸騒ぎのする晩だった。
自宅の窓から身を乗り出した橋本幸恵は、明日の天気を心配していた。犬がやたら吠えている。まさか猪でも出たのではあるまいな。だがまあ、我が家は門扉をしっかり閉めている。大丈夫なはずだ。
それでも不安になって、サンダルを履いて縁側から降りた時、異変は起こった。庭先の物置の引き戸が内側から開いたのである。
「え?」
異変はそれで終わらない。よっこいせと出てきたのは鳥相に修験者の格好をし、翼を備えた人型生物だったからである。いわゆる烏天狗という奴だ。なんだこれは。あまりにも変な光景に思考が停止する。犬も同様だった。
混乱しているうちに天狗は幸恵の前を通り抜けて玄関の門に向かっていく。そいつ一人ではない。二人目。三人目。ちょっと待て。あの物置にそんな人数は入らないだろう。しかし六人。七人。八人。どんどん増える。
最終的に、二十人目の天狗が物置をきちんと閉めると幸恵に会釈し、門から出ていった。
これは夢だ。たぶん。そうでなければおかしい。
そう結論付けた幸恵は寝ようと思って思いとどまった。そうだ。みんなで急いでここから離れなければならない。理由は分からないがそうしなければならないのだ。
重要な事実を自覚すると、幸恵は家の中に駆け込んで子供たち、旦那と義理の両親の全員を叩き起こした。車に乗って急いで駅より向こうまで行くのだ。大急ぎで。
たちまち、幸運な橋本一家と飼い犬は戦場から退去していった。
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