第120話 名付け
【十月医院】
「急にでっかくなりおったなー」
静流に抱き上げられた赤ん坊は、キャッキャと笑っていた。
先ほど急成長した赤ん坊は大変元気である。先ほどまで苦しんでいたのが噓のようだ。
病室のベッドにはノドカ。赤ん坊が落ち着いた段階で十月医師や看護師は表側の業務に戻っていった。
「これ、やっぱりすぐに大人になっちゃうのかな」
「かもしれへんなあ。そもそも生まれるまでがめっちゃ短かったし」
先ほど赤ん坊の診断は終わった。異常なし。いや、異常は異常なのだが肉体的には1歳から1歳半くらいの子供に相当する以外健康そのものなのだという。
「この速度で成長するんやったら、学校とかも行かれへんなあ」
「そうだね。困るかな」
「まあ何とかなるやろ」
何とかするしかない。例えどうにもならなくても。それが二人の共通認識ではあった。
「そろそろ名前決めたらなあかんなあ」
「どうしよ。難しい」
「日本風?ブラジル風にする?」
「わかんない。みんなと相談する」
「それがええなあ。慌ただしくて話し合う暇もなかったし」
ふたりは、すやすやと眠る赤ん坊の顔を見た。
◇
「まあ厄介ではありますね。どこまで育てば成長が止まるのか。あるいは止まらないのか。まるで分からない。知的発達も問題だ。人間の脳はゆっくり育つようにできているんです。それに合わせた学習ペースを取れるかどうかわからない。そこが怖い」
午前の診察を捌いたあと。
十月医師が話していたのは金髪の女性である。マリアという名前だ。今入院している藤森母子に関する費用を一手に賄っている、欧州の大コミュニティの代理人と聞いている。
ふたりが話しているのは、急成長を遂げた赤ん坊に関してだった。
「ひとまず、彼女の出生届を出すのは不可能となりました。人間として育てるのは無理ですね。早めに分かってこの点では幸運だったと言えるでしょう」
「当面はこちらのコミュニティの方で養育する、という形をとるべきでしょうか」
「そうですね。それしか道はないと思います。成長が終わった段階で、改めて戸籍を偽造する形になるでしょう。学校に通わせるのも困難ですが幸い、プロの教員の方がおられます。それも妖怪について極めて詳しい。彼ならなんとかできるかもしれない。私も医者であってそちらの方は素人なもので」
「分かります。後は、人並みかそれ以上の倫理観を身に着けられるかどうか」
「加えて、体質的に粗食が許容されるかどうかですね。本人が望まなくても、世界を喰い尽くしてしまうほどの食料が必要な体質かもしれない。今のところは必要な栄養価は常識的な範疇にとどまってはいますが」
「こればかりは祈るより他ありませんね……」
「ネフィリムに関する伝承から、人間がどう想像したか。そこが問題になりますからね。ただ、救いはあります。ネフィリムが大洪水で一掃された時、ノアの箱舟には確か、ネフィリムが一人だけ乗っていたそうですね」
十月医師の問いに、マリアは深く頷く。
「ええ。箱舟に乗ることを許された、心正しき者だったそうです」
「ならばなんとかなるでしょう。まず我々がそれを信じなければ。箱舟に乗ることができる、心正しき人に育つように」
「まったくです」
マリアは上を見上げた。そうして、天におられる御方に対して祈りをささげたのである。人間たちの想像が作り上げた虚像にではない。いや、"彼"も尊敬の対象ではあるものの。彼ではなく、この世界にはいないもっと概念的な存在に対して祈ったのだ。
まさしくこれは、神のみぞ知る事柄であったから。
◇
「名前?」
相談を持ち掛けられた雪は怪訝な顔をした。相手は静流である。
たまり場でのことだった。
帰宅途中に立ち寄った静流は、居合わせた人間たち(もちろん人間でないのもいる)に赤ん坊の名前をどうするべきか尋ねたのである。
「名前はなあ。生まれた場所はどこだ」
「梅田ダンジョン、言うとこや」
「じゃあ梅とかどうだ」
「うーん……」
提案に眉をひそませる静流。雪に期待したのが間違いだったか。センスが昭和どころか明治である。さすが齢千近い大妖怪に人里離れた山奥で育てられただけのことはある。
「じゃあこれとか」
ゴソゴソと取り出した古い漫画雑誌をパラパラめくって適当に名前を示す雪。この少年だんだんと文明に染まってはいるようだ。雑誌そのものは図書室にあったやつだろう。
いくつか例示される非現実的な名前にますます眉をひそめる静流。こういうのは実在する人間と被らないような名前がついていることが多い。それをそのまま採用したらキラキラネームである。
「あるいはブラジル風の名前にするとかやけどなあ。ノドカ、ブラジル生まれのブラジル育ちやし」
「というか、父親はどうした。父親にも考えさせたらいいだろう。この間の騒ぎでも見かけなかったが」
そんな雪の言葉に、たまり場の空気はしん……となった。そうだ。雪はマステマの事件のあとにここに来たから知らないのだ。数日前の浜中幹線や梅田での戦いについても前提となる知識がないので、何がどうなっているのかよくわかっていない。
「あー。父親はなあ。もうおらへん」
「いない?」
「悪い奴でなあ。ノドカはそいつに酷いことされてもうた。もうやっつけられたけどな。俺の師匠と相打ちになってん」
「……そうか。すまなかった」
「まあ過ぎたことはしゃあない。なんで、父方の親戚に頼る、言うのは無理やな。んでもって、ノドカの身内もなあ……もうあとはお父ちゃんしかおらんのちゃうか」
「なるほど。となると……誰かから名前をもらってつけるとかはどうだ」
その言葉に、静流はしばし考え込む。ノドカとあの赤ん坊の誕生に関わったひと……
「あ」
「誰かいたか」
「
「……
「そうや。俺の師匠やで」
「―――!!」
雪は絶句。眼前の少年が、神から直接手ほどきを受けたと主張しているからだ。それだけではない。ノドカが産んだ子は、武神と相討ちになるほど高位の妖怪の血を引いていることになる。
彼らは、一体。
「まあその辺の話はまたおいおいしたるわ。ひとまず女の子っぽい字を選ばんとなあ。ノドカにも言うといたろ」
静流はスマートフォンを取り出すと、ノドカにメッセージを送った。
◇
「それで、名前は決まったのですか」
「うん。この子はね。ミナ。
マリアに問われたノドカは微笑んだ。先ほど名前が付いた赤ん坊を、腕の中であやしていたのである。もう1歳相当で、かなり重くなっていたが。
「そうですか。良かった。この子は武神のように強く育つことでしょう。
ミナ。私の妹。正しく生きるのですよ」
「キャッキャ」
赤ん坊改めミナは、分かっているのかいないのか。とても嬉しそうだった。
「あ。そうだ。もう離乳食なのかな」
「どうでしょう。十月先生に相談しましょう」
二人が会話する間に、ミナはすやすやと眠りについた。
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