第118話 去る者と生き残る者
―――おぎゃあ!おぎゃあ!おぎゃあ!
元気な泣き声が、響いていた。
産まれたばかりの赤ん坊が、泣いていたのだった。
狸のお婆さんが取り上げたのは玉のような、という表現がぴったりの、人間の赤ん坊。少なくとも見た目にはそう見える生き物。
「おう。おう。元気な子やねえ。よしよし。よく生まれたねえ。頑張ったねえ」
手際よく仕事を済ませていくお婆さん。産湯につけ、清潔なバスタオルで包んだ赤ん坊をやさしく、ノドカへと受け渡す。
「……私の、赤ちゃん」
「そうじゃねえ。ようやったねえ」
峠は越した。少なくとも、今直面している問題のひとつについては。
室内にいる皆が、安堵していた。
そこへ、外から声が。
「誰か来よるぞ」
雛子が慌てて立ち上がり、偵察に向かう。壁に化けたお爺さんのこちら側から耳を澄ます。
「おおい。雛子ちゃん。藤森。いるか?」
それは、竜太郎の声だった。壁から顔を出して目視。やはり竜太郎だ。負傷したのだろうか、背負われている犬神千尋の姿も見える。あの分なら偽物ということはあるまい。
「竜太郎さん!こっちです。
お爺さん、通してあげてください。身内です!」
壁への変化が解かれ、お爺さんが狸の本性を現す。竜太郎たちがようやく家に到着した。千尋が家の前のベンチに座らせられる。この時ようやく、雛子は彼女が片足を失っていたことに気が付いた。激しい戦いがあったのだ。つい先ほどまで。
「よく頑張った。雛子ちゃん」
「は……はい、竜太郎さん」
雛子は竜太郎の胸に飛び込む。うっかり、透明なままで。それでも竜太郎は、雛子をしっかりと受け止めていた。
「今度ばかりは、駄目かと思いました……」
「だが君はやり遂げた。よく、生き延びてくれた」
「……はい。はい!」
こうして、ノドカと雛子。二人の長い一日はようやく終わりを告げた。
◇
【梅田 隠れ里"魔女の庭"】
「ふふっ。そうか。無事に済んだか」
フクロウからの報告を受け取り、魔女は微笑んだ。
太陽はすでに傾き始めている。それに照らされた空中庭園の花々。蜜を吸うので懸命な日本蜜蜂ら。瑞々しい果実を実らせた木々。ハーブや野菜。それらの合間を行き交う小動物。そのすべてが美しく輝いていた。それはまるで、今日という日を無事に乗り越えることのできた証明にも見える。
「これで世界の破滅から一歩、遠のいたか……」
今日、地下で誕生した赤子は世界を守る存在だ。正しく育てることができれば、という但し書きが付くが。しかしそれだけではとても足りない。この世界にはかつてないほどの危機が迫っている。
それがどのようなものかはまだ分からない。予言とは曖昧なものだ。いかに強大な力を備える魔女といえども、はっきりと何が迫っているかを断言することはできない。
だから細かいことは後回し。今は赤子だ。
「のう。生まれたばかりの赤ん坊に贈るのは何が良いと思う?」
「ホォ」
「いやいや、それはまずいじゃろうて。違うものにせねばのう」
フクロウと相槌を打ちながら、魔女は頭を悩ませた。
◇
【梅田ダンジョン】
溶岩虎は、真の闇の中にいた。
両目は失われた。脇腹の傷は貫通している。全身に開いた穴は石礫を投げつけられた跡だ。体内もズタズタに破壊され、手当てが必要な状況だった。このまま誰の助けも得られないのであれば、いずれ溶岩虎は死ぬ。すぐではないにせよ。
床に倒れ伏した彼女は、やがて遠くから足音が聞こえてくるのに気が付いた。小さい。体を引きずる音。この歩調には覚えがある。しかし彼はもっと威風堂々と歩いていたのではないか。こんなに弱々しいのは彼には相応しくない。
―――まさか。
そうして、足音の主は溶岩虎のすぐそばで立ち止った。
「生きていたか。溶岩虎よ」
「……ご主人様…首尾はどうなりましたか……?」
「私たちの完敗だ。しかし、それでも心配はいらない。そう言われたよ。彼らはきっと、赤子を正しく導くからと」
「……そうです……か……」
「溶岩虎よ。よくぞ私に付き合ってくれた。感謝する。
恐らく上に戻れば、敵が待ち構えていることだろう。私はこの地下迷宮の奥深くに身を隠そうと思う。そうして静かに生きるのだ。何年でも、ほとぼりの冷めるまで。私の故郷に至る道は、もう断たれたから。
ついてくるか?」
「……はい、ご主人様」
「ありがとう」
マテウスは溶岩虎の体を抱きかかえた。傷ついた乙女の姿の肢体を。
そして、ふたりは去っていった。何万平方キロメートルという広さのほとんどが未探索の、梅田ダンジョンの奥深くへと。
◇
【神戸市内 救急病棟 救急センター】
「お疲れさんでした」「お疲れ」
室内では手術に従事した他のスタッフもぐったりとしている。当然だろう。何しろショットガンで何発も撃たれて運び込まれた男性を救うという難事業だった。ひとまず手術が成功したのは奇跡にも等しい。患者が物凄い幸運に恵まれていたのは間違いないだろう。もっとも、それだけならば珍しくはあっても不思議というわけではなかったのだが。
「鈴木さん」
「うん。どうした」
話しかけてきたのは後輩の医師。彼もいっしょに手術には立ち会った。
「今日の患者の体。あれはちょっと変ですよ。いや、ちょっとなんてもんじゃない。あれ、本当に人間なんですかね」
「おいおい。宇宙人だとでもいうつもりかい」
「そうは言ってません。けれど……」
「考えすぎだ。そういう人間もいるんだろう。特異体質ってやつだな。警察だって彼の身元については確認してる。私たちの仕事はなんだ?」
「患者の治療と、被害に関する知見を司法に渡すこと」
「その通り。それ以上のことを考えるな。患者のプライバシーだぞ」
「……分かりました」
後輩は引き下がり、ようやく鈴木医師は晩飯に取り掛かる準備ができた。素晴らしい。これ以上の邪魔が入る前に食ってしまわねばならない。
カツ丼への決意はしかし、再び暗礁に乗り上げた。割り箸を割ったところで、背後が異様に重苦しい気配に包まれたからである。電灯が明滅し、パソコンの画面がちらつく。
強い意思を持って振り返るのを拒否すると、鈴木医師はカツ丼のパッケージの透明な蓋を外した。外しながら言った。
「そろそろ来るんじゃないかとは思ってましたよ。ですが今、ようやく飯なんです。食べながら話させてもらっていいですかね」
背後から来る異様な雰囲気が、ほんの少しだけ困惑の色を帯びる。少なくとも対話が成立する余地はあるらしい。素晴らしい。飯が食える。
カツの最初のひときれを口に運び、急いで飲み込む。ペットボトルのお茶を口にし、そしてようやく鈴木医師は次の言葉を相手に発した。
「用件は運び込まれた患者さん。そうですよね。名前は火伏次郎。彼は不思議な肉体構造をしていた。懸念は分かります。その秘密が私たちの口からバレるんじゃないかと思って。誤解しないでほしいんですが、私たち救急医というのはそんなことを気にしてるほど暇な人種じゃないんです。人が生きるか死ぬかという戦いですからね。もちろん救うのに役立つ知見ならありがたく頂戴しますし論文にも書きますが」
コメを口に運び入れる。最新のテクノロジーは素晴らしい。長時間放置されて冷めきったご飯もおいしく食べられるのだから。
「以前、三宮で不思議なビルに立ち寄ったことがあります。その時私は命を狙われていまして、競馬場で出会ったこれまた不思議な男性に生命を救われたんです。彼はこの世に不思議な存在がたくさんあることを知っていました。彼に連れられてたどり着いたビルにはその後、二度と行くことができませんでしたが。たぶん、用のない人間には見つけられないものなんでしょう。私はいちいちそれを言いふらしたりはしませんでした。用のない人間が興味本位で殺到したら大変ですからね。今日の手術についてもおんなじです。私の仕事は患者の生命を救うことと、司法が判断するのに必要な材料を提供することです。彼の特異性をいちいち言いふらすつもりはありません。信用していただけるかどうかは分かりませんが」
そこまで一気に話し、カツとご飯を口にかきこむ。咀嚼する。お茶で流し込む。一息ついた。後は残りも全部食べるだけだ。
「……?」
しばし待つが、背後の気配が動く様子はない。いや。
振り返る。そこはいつも通りの救急センター内。何もおかしなものはいない。しかし少しだけ変わったことが起きていた。
室内にいた他の医師や看護師たちが机やテーブルに突っ伏し、穏やかな寝息を立てていたのである。目を覚ましていたのは鈴木医師だけだったのだ。
そして、部屋の中央のテーブル。そこには先ほどまでなかったものが置かれていた。
歩み寄り、拾い上げる。しげしげと眺めた鈴木医師は、それが名刺であることに気が付いた。住所は———旧居留地。あのビルだ!!
鈴木医師は、相手が何者だったのかを悟った。
更に情報を確認する。電話番号もある。そしてオーナー名。花園千代子、と書かれている。恐らく、今の今まで背後にいた気配の主。
一通り確認した名刺を素早く仕舞うと、鈴木医師は自分の席に戻った。残りのカツ丼も食ってしまわねばならない。
そうして、病院の夜は更けていった。
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