第112話 魔女の庭

【梅田ダンジョン 狸夫妻の家】


「なんともまあ。お嬢さんに酷いことする奴がいるねえ」

狸のお婆さんは、雛子の手に薬を塗りながら呟いた。

梅田ダンジョン奥の家でのことである。

この老夫婦、どうやら雛子のことが見えているらしい。薬を塗るのに何の不都合もないようだった。いや、雛子の側も実体化する必要はあったが。

畳敷きの狭い部屋の中で、雛子の手当てが進みつつあった。

「おばあさんたちは、私のことが見えるんですね。芝右衛門さんは見えてはなかったのに」

「おや。お嬢ちゃん、芝右衛門様とお知り合いかい。わたしたちだってあのお方とおんなじ狸だけどねえ。暗いところで暮らしてるから、目で見る以外の感覚も強まってるのさ」

お婆さん曰く、聴覚。嗅覚。触覚。味覚。地下生活に適応する過程でそれらの働きが強くなったため、特に見えない幽霊相手でも困ることはないのだという。元が動物の妖怪であるからだった。

雛子が納得している間に薬は塗り終わり、包帯もまかれる。

「さ。これでいい。無茶しないようにね」

「あ、ありがとうございます」

そうこうしているうちに、家の中にいいにおいが漂い始めた。台所にいた狸のお爺さんがタッパーの中身やスープを温め直し、皿に取り分けたのだった。

「今日は中華じゃよ。ちょいと晩飯には早いがのう」

八宝菜。春巻き。酢豚。中華スープ。ごはんもある。彼の話の通りなら廃棄される残飯を集めて来たはずだが、ちゃんとした料理に見えた。

ちゃぶ台に四人分の食事が並べられ、皆でそれを囲む。

「さ。しっかり食べなされ。怪我なんかすぐに治るじゃろう。そっちのお嬢さんもお腹の子のためにもしっかり食べんとな」

「「いただきます」」

雛子とノドカは、ありがたく食事にありついた。


  ◇


「なるほどな。ただでさえ複雑な地下構造が人間の想いを増幅して作り上げた"存在しない地下街"か」

マテウスが踏み込んだ空間に対して下した評価は、そんな風だった。

「夜目は効くか」

「ある程度は。しかしここは光が全くありません」

「確かにな。これは困る。―――

周囲十メートルほどに、淡い光が広がった。マテウスの聖なる言葉によって周囲が照らされたのである。

「行くぞ」

告げるマテウスに慌ててついてくる溶岩虎。

誰もいない地下街をふたりは進む。

「ご主人様」

「なんだ」

「どうしてあなた様は人間の犠牲を嫌うのでしょうか。人間など多少減っても、すぐ増えるではないですか」

「人間はそれを望まない。そして私は人間の味方だ」

「あの娘も人間のようでしたが」

「……殺さねば、より多数の人間が死ぬだろう。何十万という数だ。私の父は、あの娘に怪物を孕ませたのだ」

「人を多く殺すから殺されると」

「その通り。確実に仕留めねばならん」

「ようやく腑に落ちました。過去、私が蘇るたびに人間や妖怪たちが私を殺してきた理由が。人を大勢殺したから殺された。人を殺す者は殺されるのですね」

「……?何を言っている」

マテウスは今この時初めて、溶岩虎という怪物の力ではなく人格に対して興味を持った。こいつは、一体。

振り返った主人に見つめられながら、溶岩虎は語る。

「ずっと考えてきました。人間たちはどうして私を畏れるのだろう。どうして同族を大勢殺すのに、私に殺されるのは拒絶するのだろう。阿蘇の溶岩から生まれ出でて数百年。殺されては蘇り、再び殺される繰り返しの中で考え続けました。けれど結論は出なかった。誰も私に何も教えてくれなかった。ご主人様以外、今まで誰も私の問いかけに答えてくれなかったからです」

「待て。ではお前は武器の扱いをどこで学んだというのだ。人間から学んだのではないのか」

「違います。わたくしは破壊と殺戮と暴力の化身。その目的に属する道具であれば、扱い方は分かります」

マテウスは絶句。この妖怪が、生まれたばかりの無垢な赤子と変わらないと理解したからである。

「わたくしは火山の噴火そのものです。内に燃え滾る溶岩の迸るままに暴れてきました。ご主人様に仕えて初めて、それを制御するべきものだと学んだのです」

マテウスは悟った。今まで誰も、こいつに人の世の理を教えられる者はいなかったのだ。何故ならば溶岩虎はあまりにも強すぎたからである。誰が火山の噴火に人の道理を説けるだろうか?

だが、マテウスならばできる。悪霊の軍勢を率いる天使の血を引く、この半天使には。

「溶岩虎よ。人を殺しては、いけない……より大きな禍を避けるため、やむを得ない場合を除いては。

誓えるか?」

「はい。誓います、ご主人様」

「過去の自らの行いは過ちだったと認めるか?」

「はい」

「いいだろう。ことが済めば、お前を連れて帰ろう。人の世について教えてやろう。十分に学んだ時、どう生きるかは自分で決めるがいい」

「はい、ご主人様」

ふたりは、より奥へと進んでいった。


  ◇


【梅田 隠れ里"魔女の庭"】


フクロウが舞っていた。

地下への通風孔から飛び出したそ奴は、勢いをそのままに上昇していく。それはたちまちのうちに周囲の高層建築をも飛び越え、頂点に達した。

そのまま彼は水平飛行に移行する。眼下にはまるで点のように小さな人間たち。行き交う自動車。それらが整備された道路を走り、それらを巨大な幾つものビルディングが遮っている。

やがて前方に見えてきたのは庭園。巨大なビルディングの屋上の一つにあるそこへと、フクロウは降下していく。

その中央付近にある藤棚のテーブルを囲む席の背もたれへと降り立った彼は、ほう。と一声鳴いた。

「……はっ。おお。帰ってきたか」

フクロウの向かいに座っていた女性。目覚めた彼女は手を伸ばす。そこへ、フクロウは飛び乗った。そのまま肩へと運ばれていく。

「伝令ごくろう。狸の夫婦にはよろしく言っておいてくれたか」

「ほぅ。ほぅ」

「そうかそうか。よしよし」

若い女性であった。ごく普通の服装をしているが、ただ者ではないのは身体的特徴からも明らかだ。牡鹿のような立派な枝角を伸ばし、人間とは思えないほどに美しい容姿だったからである。

魔女と呼ぶのが相応しいであろうか。

彼女こそが梅田コミュニティのまとめ役であり、ここ”魔女の庭“と呼ばれる空中庭園こそがそのたまり場であった。JR大阪駅から徒歩とエレベータを乗り継いで十分の好立地である。庭を守護する魔法に惑わされなければ、の話だが。

彼女はフクロウを肩に乗せたまま藤棚の外に出る。

途端、空が陰った。8月の強烈な日光を遮るように。これこそが彼女の権能。空は彼女の領土なのだ。特に悪天候を司るのが、この魔女の力であった。それだけではなく、このに空中庭園と住居を作り上げたのも彼女の力あってのことだ。

ビルの端から、梅田の町を見下ろす。

彼女がここに根付いてどれほどになろうか。信仰する者を失い、忘れられた神となった彼女は何百年もの放浪の末、大陸を横断してこの地にやってきた。この地の人々の天候に対する畏れの想いを糧として力と存在を保ち、土着の神々と協力しながら世の均衡を保ってきた。しかしそれが破られるやもしれぬ。今、ここの地下。天空を領土とする魔女が支配する、もう一つの領域にて行われている戦いの結果如何によっては。

魔女はその、卓越した霊視の力によって知っていた。もうすぐ生まれようとしている赤ん坊がこの世界の行く末を決める重要な存在となるということを。地下に住まう狸の夫婦に命じて、その母を手助けさせたのもそれが理由だ。

神戸からの増援もまもなく到着するだろう。神戸から梅田までは電車でほんの30分あまりしかかからないのだから。だが地下に踏み込んだものたちの力も強い。戦いの結果がどうなるかはまだ、分からなかった。

魔女自身が介入することは出来ない。彼女の霊力は地下には及ばないからだ。

悪天候の魔女と呼ばれる存在は、待った。決着がつく時を。

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