第77話 暴風雨と山犬
【兵庫県神戸市中央区ハーバーランド】
凄まじい暴風雨だった。
乗用車の後部座席で、雛子は掌の上を確認する。そこにちょこん。と乗っている種から伸びた芽は、ずっと一方向を指していた。今いる位置から見て海側。阪神高速道の高架を挟んだ向こう側にそびえる高級ホテルの建物を。
車内にいるのは皆が妖怪だった。老人もいれば若い女性もいる。見た目にはさほど意味はない。どれも仮の姿に過ぎない。雛子としては彼らのような、普通の人間に見える仮の姿も欲しかったが。何人もの妖怪に相談したが、出た結論は化けることに関する才能の根本的な欠如。何十年も修行すれば、あるいは分からないが。
雛子たちの役目は準備が整うまでの監視だ。近隣のコミュニティからも応援が来る。もうすぐ襲撃メンバーが揃うことだろう。そうなればあのホテルに攻め込み、さらわれた少女を救出しなければならない。
「いやあ。酷い雨だ」
ドアが開き、雨合羽を着た竜太郎が入ってきた。手には大きなビニール袋。中身はパンやおにぎり、ペットボトル飲料がたっぷりだ。
「買ってきたよ。こんな天気なのに凄いね。コンビニは営業してた。もうすぐ閉めるそうだけど」
バスタオルが敷かれたシートの上によっこいしょ。と座り、戦利品を差し出す竜太郎。各々がおにぎりやパンなど思い思いのものを取っていく。
雛子がカツサンドを掴み、後ろに座っていた少年はめんたいおにぎりを手に取った。芝右衛門である。彼も今日は、わざわざ淡路から出てきたのだ。
「まあ、人間の出入りが少ないのは俺たちとしちゃありがたい。びしょ濡れになるのはかなわねえけどな。風邪ひいちまうぜ」
「確かに。お互い、そろそろこういうのはきつい歳だ」
冗談に皆が笑う。ここにいる者は全員、風邪をひかないし歳も取らない。人間の竜太郎を除いて。
車が止まっているのは高架近くのビルの横である。ここが集合地点であった。
皆が食事を食べ終わったあたりで、後ろにバンが止まる。さらに遅れてもう一台乗用車が。
「揃いましたかね」
「たぶん」
竜太郎たちが車を降りると、他の車からも数人が降りてきた。ほとんどが顔見知りの仲間だ。先ほどの襲撃にも参加した者もいる。
「やあ。お互い怪我しないように気を付けましょう」
「まったくだな。さっさと終わらせよう。こんなろくでもない事件はたくさんだ」
降りてきたクリスティアンたちに手を振る竜太郎。彼を含め、普段はあまり顔を出さないメンバーも今日は多い。事態が事態だからだろう。こういう状況下でのコミュニティの動員能力は驚くべきものがあった。
「犬神さんも参加ですか」
「ええ。人手が足りないでしょう」
竜太郎に頷いたのは三十手前の髪が長い女性。昨夜、武神に襲われた竜太郎に治癒の術をかけてくれたのも彼女である。てっきり彼女はバックアップだと思っていたが。他に真理や千代子などもバックアップ要員として後方に待機している。コミュニティに協力している人間たちも。
彼ら彼女らと最後の打ち合わせをしている段階で、最後の自動車がやってきた。降りてきたのは火伏と、そして静流。
「火伏さん。連れてきたんですか」
「ああ。彼も自分の身は自分で守る。今は一人でも多いほうがいい」
「それはそうですが」
静流はぺこり、とお辞儀した。どうやって彼の保護者を納得させたのやら。いや、させていないのかもしれないが。
今はもう追及する段階ではないと判断した竜太郎は、皆との打ち合わせに戻る。火伏と静流もそれに加わった。
ともあれ、これでこちらの戦力は十五人。目標である犯罪組織の妖怪はおそらく五人程度だから、戦力では圧倒できる。もちろん数だけで戦いは決まらないにしても。
やがて役割分担が決まり、攻撃のタイミングが決定された。
雛子が取り出した1400CCに跨り、竜太郎もその後ろに座る。透明化して見えなくなった二人乗り以外の車両にも皆が乗り込み準備は完了だった。
作戦が開始された。
◇
【兵庫県神戸市中央区ハーバーランド ホテル15階】
「来たか」
マステマは、窓から外を見ていた。暴風で荒れ放題の海をじっと見つめていたのである。彼が備える超自然的な感覚は、敵の到来を告げていた。予想よりかなり早い。恐らくオモルがやられたに違いない。残る戦力はマステマを含めて五名。問題ではなかった。最悪、誰か幹部の一人でもノドカを連れてブラジルの本拠まで撤退できればよいのだから。そこにマステマ自身が含まれている必要はない。我が子の誕生を見届けられなくなるのだけは残念だとしても。
「"オシュマレ"よ」
「ここに」
影だけが、部屋の隅に佇んでいた。もっとも、マステマの霊的な視覚は彼の真の姿をはっきりと捉えていたが。彼に付けられたようなコードネームも、そもそもの組織の素性を隠すためのものだ。天使マステマが率いているという事実が判明すれば、かつての仲間が―——大勢の天使たちが攻め込んでくるに違いなかったから。
「敵が来る。出迎えの準備を」
「はっ」
人払いの結界はすでに張り巡らされている。このホテルの宿泊客や従業員は今日はもう、部屋の奥に閉じこもって出てくることはない。邪魔になることはないだろう。ホテルごと吹き飛ぶような事態になれば話は別だが、敵がそれは望まないはずだ。そういう意味では有効な人質とも言える。
ややあって、天井の電灯が火を噴いた。いや。電灯だけではない。電話やテレビなどあらゆる機器が。電気系統が吹き飛ばされたのだ。"オグン"の雷によるものだった。これと結界でコンピュータワールド側からの干渉は跳ね除けられる。
窓を離れ、隣室へ。
そこではノドカが毅然とした視線をこちらに向けていた。
マステマは彼女に問う。
「敵襲のようだ。そなたが呼んだか」
「ええ。あなたは私の力に興味がないと言っていたけど、私にとってはこの力は唯一の武器だもの」
「後悔することになる。そなたを救いに来たものたちの屍が並ぶこととなろう」
「あなたのことはエシュから聞いた。昔は高潔で立派な天使だったんでしょう。どうしてそんな風になってしまったの」
「……」
少女の眼差しに、しばしの間マステマは考え込んだ。真剣に答えようとしている証であった。
「……元から立派な天使などいなかったのだ。我らは人間の想いが生み出した存在にすぎぬのだから」
「そう。悲しい人。見知らぬ誰かのために傷つくことはできても、その人たちに大切なものを踏みにじられるのは許せなかったのね」
「その通りなのだろう。私が行おうとしているのはただの八つ当たりだ。だが、そなたに理解できるか?最も大切なものを失った悲しみに耐えきれず、自害した。にも関わらず、蘇った。私は不死であるが故に。悲しみから逃げることさえ許されぬのだ。そしてそれを支えているのは定命の人間たち。彼らは死ぬことが許されているのに、どうして私には許されない?」
「……あなたは、忘れないの?それすらできないというの?」
「あれを忘れることなどできぬ。忘却の安息に逃げそうになるたび、私は自らの心の傷をえぐられるような思いをしてきた。そのたびに悲しみの記憶はむしろ強まるのだ。自分があの時のことを忘れようとしている事実に気付くことで」
「そう。もうあなたは止まれないのね」
「左様。
自らの神に祈るがいい、ノドカ=藤森よ。私にかりそめの死を与えられるほどの猛者が、己を救いに来た者たちの中に含まれていることを」
「そうするわ」
それで終わりだった。マステマは踵を返し、部屋の外に出ていく。戦うために。
後には、ノドカだけが残された。
◇
【兵庫県神戸市中央区ハーバーランド ホテル付近】
走行中の車列は、ゆっくりとホテル外周の道路を進んでいた。そのまま玄関口まで回り込み突入する手筈である。真理による電子的介入と人払いの結界の合わせ技で、人間の介入は最小限となるはずだ。
やがてホテルの敷地の入口に差し掛かったあたりで。
「―――?」
助手席側に座り、外を警戒していたコミュニティのメンバーの一人。
「回避して!!」
「!」
次の瞬間、車列の最前列に落雷が降り注いだ。黒焦げとなった車体はコントロールを喪失したか、スリップして停車。後続車の道を塞ぐ。
それで終わらなかった。
最後尾に位置する乗用車のホイールが吹き飛んだ。それも立て続けに二つ、ホテルに面した側が。こちらもコントロールを喪失し、急停車していた前の車に激突する。
「―――待ち伏せだ!車を降りて隠れろ!!」
誰かの叫び。
轟音が豪雨でかき消される中、千尋は車から転がり落ちた。その頭上をかすめていく矢の気配に身を縮める。悲鳴。誰かに直撃したか。まずい。これではいい的になる。遮蔽物が必要だった。しかしホテルからここまでは見通しが良い。どの方向に対しても。
だから、千尋は自らが遮蔽物となることにした。
正体を現す。肉体が膨れ上がり、着衣が弾け飛ぶ。骨格が変化し、二足歩行が保てなくなる。全身を濃い獣毛が覆い、尻尾が伸びる。牙が生える。たちまちのうちに質量が何百倍にも増える。
ほんの一瞬で、千尋の姿は巨大な狼と化していた。アフリカゾウほどもある、山犬の姿に。
「私の陰に!」
正体を現しても声には全く変化がない。元の人間の女性の姿だった時のままだ。言葉に従い、仲間たちが駆け寄ってきた。破壊された自動車の陰を伝いながら。
雷が千尋の体を打ち据え、何本もの見えない矢が突き立つが大したダメージではない。十トンの質量と戦車砲にも耐える骨格、分厚い筋肉の層と毛皮の防護は正面からの妖術などほとんど通用しない。これほどの力を持ちながら千尋が普段バックアップに徹しているのは、まさしく力が強力すぎるからだった。十トンの体重で暴れれば被害があまりにも大きすぎる。
「みんな揃った!?」
「ええ!なんとか!」
「行くわ」
全員無事なのを確認し、前進する。小走りに。何発もの攻撃が体を打ち据えていく。問題ない。ホテルまでたどり着けば一方的に攻撃されるのも終わりだ。
そのはずだったが。
豪雨の向こうから、一瞬のきらめきを感じ取った千尋は反射的に頭を下げた。
それが、命を救った。
正確に眼球を狙っていた矢の一撃は、千尋の頭部をかすめて後方に着弾。衝撃波を発し、十メートル以上のクレーターを作り出す。
先の見えない矢や雷とは、比較にならぬほどの破壊力だった。
「―――!?」
ショックで脳がぐらつく。意識が一瞬、
ただの一撃でこの威力!!
「……走って!全力で!!」
叫び、自ら実行する。まずい。仲間たちを守っている余裕はない。次にまともに喰らえば死、あるのみだ。
敵もそれを理解しているのか、雷や見えない矢が千尋の前脚に集中し始めた。足を止めるつもりなのだ。そこにあの、強力な矢が来れば―——
再度の衝撃。
右の肩口を吹き飛ばされた千尋は、それまでの慣性そのまま路上を滑った。幸い地面は濡れている。そこに残った足の力を加えて前進する。玄関口に激突。この位置ならば真上から撃たれる心配はない。
力尽きた千尋は、人間の姿に戻る。優美な曲線を描く女性らしい肢体は、右肩から先の消失があまりに痛々しかった。頭皮もえぐれ、頭蓋骨が一部見えている。もはやまともに戦うことなどできまい。
「……みんな、無事?」
「ああ。千尋さんのおかげだ。後は私たちが何とかする。隠れていてくれ」
仲間たちの言葉にうなずく千尋。別動隊も接近しているはずだ。無事にホテルにたどり着けただろうか。
分からないが、信じるより他はない。
皆の無事を信じながら、犬神千尋は意識を喪失させた。
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