第9話 病院って……(3)〔打ち明け話と一致点〕
「すいません、来てもらっちゃって」
「いえ」
「でも穴場でしょ」
「悪くないですね」
「あたし、早希っていいます」
「早希さん……」
「ええ、『さん』はいらないので、早希って呼んでね」
「私は、森下です」
「森下さん……。下の、名前は?」
以来私は、ジュンさんと呼ばれるようになった。
早希は、少し色を抜いた、自然なウェーブのある髪を肩まで伸ばしていて、その髪をときどきかきあげると、耳にピアスが三つ四つ刺さっている。
その彼女が言う。
「あたしね、最初は、こことは別の病院で、吉田先生にかかったんですよ」
「そうですか」
「その病院は閉鎖病棟もあって、そこに入ってた人とも、知りあったりしてね。それと、若い人も割と多くてさ、お互いにいろんな情報を交換したりするんですよ」
「……さっきの待合室は、そんな雰囲気じゃなかったですよね」
「でしょ。だから迷惑かなとは思ったけど、ちょっと声をかけたんです」
「はあ、なるほど」
早希は、少し間を置いてから、こう言った。
「あたしねえ、過食なんですよ」
「過食?」
「そう」
「……拒食とかじゃ、なくて?」
「拒食もときどきあるんだけど、でも、基本過食で、それで、吐いちゃうんです」
「はあ……」
「ジュンさんは、拒食なんですか?」
「いえ……。一応、食べれてます」
「うつ、とかですか?」
「……さあ、どうなんでしょう」
「こういう話、NGですか?」
「いえ、そういうわけでも」
「ジュンさんは、初めてでしたもんね」
「ええ、私はなんか、頭の中がいろいろ混乱して、ごちゃごちゃになるとか、そういう系なんです」
そういう系って、どういう系だか、自分でも分からなかったが、早希はとりあえず、ああ、と納得してくれた。
「こっちの病院は、予約が取りやすかったりするんですよ。あと、イレギュラーな患者も、割と受け入れるんですね」
「なるほど……。私は四日前に、急に来ることになって」
「そうですか! あたしなんて、たまに予約もせず、いきなり来たりしますよ」
「それって、大丈夫なんですか?」
「いえ、ダメなんですけど……」
と言って、早希は自分の言葉に大ウケした。
「吉田先生、勝手に来ても会いませんよ、って言うんだけど、でもこっちの病院だと、空きがあれば会ってくれたりしてね……。でも基本、約束を守らないと、妙に怒るのよ。食事のこととか、腕の、こととかね」
「腕?」
「あたし、長袖着てるじゃないですか」
早希は自分の腕と、私の腕を、見比べるようにする。私も長袖だ。
「でもここしばらく、切ってないんですよ」
と言うと、早希は自分の左腕をまくった。
二の腕に、たくさんの切り傷があった。話には聞いたことがあるが、実物を見たのは初めてだ。
でもこういうときの私は、意外に肝が据わっていて、むしろ腕に一枚だけ貼ってある、キティちゃん柄の絆創膏に目が行った。
「なんで、キティちゃんなの?」
「ああ、そっち? これはね、ちょっと前まで付き合ってた、馬鹿な男がくれたのよ。どうせ人に見せないなら、キティちゃんでいいだろって」
「ふうん……。痛むわけ?」
「というか、かゆい」
と言うと、早希は再び自分の言葉にウケた。
そして私の腕を見る。
「……私? 私は違うのよ。単に体形をカバーしてるだけ」
そう言って、私も袖をまくって見せた。
そういえば阿川さんが、暑いのに長袖を着てることを、私に指摘したっけ。
「ふーん……。でもジュンさん、全然問題ないじゃないですか、そのスタイル」
体形の話には深入りしないようにして、言葉を返す。
「……私も、切ってると思った?」
「うーん、それは分からないけど……」
「そういうふうに、見えた?」
「気に障ったなら、謝るわ」
「そうじゃなくて、自分が人からどう見えてるのか、興味があったから」
「そうね……。顔色が冴えなくて、調子悪そうだった」
「……チークを塗りたくってきたんだけど」
「そこは目立ってるわ。攻めてる感じがする」
「……からかってる?」
「そんな、怒んないでよ……」
梨子と話してから、つい言葉がつっけんどんになる。
早希は続けて言った。
「ほんと言うとね、なんか話せる感じが、したんだな……。分かってくれそうって、言うのかな」
「でも私、過食もないし、切ったりも、しないよ」
「そういうことじゃなくてさ、いろんな機微を、理解してくれそうっていうのか」
早希は私を見て言う。
「人のことなんてどうせ分からないけど、でも一番肝心な部分で、どこか重なりあったり、とらえあったり、そんなことが、できそうな人に思えたのね。まあ、感覚的なものだけど」
早希の顔だちには、どこか捕食動物みたいな鋭さがあって、ただ鼻だけが控えめに丸く、いつしかその上に、うっすら汗が浮かんでいる。
私は言った。
「でも私、人付き合い悪いし」
「やだ、なんか、線引こうとしてない?」
早希は、私とのあいだに手で線を引く真似をした。
「そういうわけじゃないけど。でもいろいろあってね、ちょっと人間関係に、慎重になってるだけ」
「人付き合いなんて、あたしも最悪よ。地元の高校に通ってたころには、それで死のうと思ったもん」
「穏やかじゃないわね」
「卒業してからも、いろいろあってさ。去年だけど、地元で夏祭りがあったのよ。あたし、祭りってガラじゃないじゃん。本当なら死んでも行かないんだけど、一人、気になってたやつがいてね」
「誰?」
「実は高校で、付き合ってたのが、いたのよ」
「ああ……」
「といっても、一か月くらいだけど」
「儚い恋ね……」
「ただ、身も心もぐちゃぐちゃな関係だったんだけど」
「そういう話は、苦手なの」
「でもさ、卒業後何してるって、気になるじゃない。そんなとき、そいつが神輿をかつぐっていう話を聞いたのよ」
「神輿って、あのワッショイっていう、神輿?」
彼女は少し身を乗り出して続ける。
「そうそう。あたしもさ、神輿って何? 何ゆえ神輿? って、意味分かんなかったんだけど、ただ、なんかハレの舞台って感じはするじゃない。だから久しぶりに会う口実には、ちょうどいいかなって思ったの。それで、死ぬ気で行ったのね、夏祭り」
「すぐ死ぬ気になるのね」
「そりゃそうよ。だってさ、真夏なのに、炎天下の、神社の境内とか、駅前商店街とかでやるのよ」
「暑そう」
「あたしなんて、完全にミスマッチじゃない。ほら、よくさ、石を裏返すと、変な湿った虫が出てくるでしょ。自分が、その虫になったみたいな気がしたわ」
「妙な例えね……」
「そこまでの思いをして行ったにも関わらず、どうしたと思う? 来てないのよ、あいつ」
「えー、どうして?」
「知らないわよ。しかもさ、あいつは来てないのに、それ以外の、会いたくもない同級生やら、先輩後輩やらが、うじゃうじゃ来てるの」
「友達とか、いたんじゃないの?」
「そう思うわよね、普通。まあ、話し相手ならいたわ。でも友達と呼べる人なんて、いなかった」
「そう……」
「壊れた時計みたいに、時が進めば進むほど、歯車がかみ合わなくなるというか。暗い高校時代だったんだから」
その感覚は分かる気がする。
彼女は話を続ける。
「そんなやつらに顔を合わせてさ、それなら、そのまま帰ればいいと思うじゃない?」
「一度顔を出したら、そうもいかないよね」
「そうそう! あたし、帰るに帰れなくてさ」
「だと思うわ」
「あたし、あいつらの前では、どうなるか分かる? もう、ひっと言も、しゃべれなくなるのよ」
「……ふーん」
「このあたしがよ。なんか、能面みたいって、言われるもん」
「ああ……」
「分かる?」
「私、マネキンって、言われたことある」
「そう、それ! で、そう言われると、余計固まっちゃってさ」
「だよね」
妙な一致点を確かめたあとも、彼女の話は止まらない。
「結局あたしが口にできたのは、その元カレだった子は、来てないの? っていう質問だけ」
「だって、そのために来たんだもんね」
「で、あいつら、あたしになんて言ったと思う?」
「さあ……」
「ムッツリして、男ばっかり追っかけてるとか、言うのよ」
「ちょっとひどいね……」
「だいぶひどいよ。それもさ、女子だけじゃなくて、男子までもがそう言うのよ。炎天下の駅前商店街で、面と向かってよ」
「それはひどいわ」
「確かに、男ばっかり追っかけてたんだけどね」
「何それ……」
「祭りって、みんな盛り上がるじゃん。何か、一体になるじゃん――」
彼女は目の前にその風景を思い描くように言う。
「――ギラギラした大通りで、ハチマキ巻いてパッピ着た男どもや女どもが、汗だくになって神輿を振り上げ、ワッショイワッショイって大騒ぎしてるわけよ。そのぶん、そこから外れた者への仕打ちも、情け容赦がないっていうかさ」
「なるほど……」
「でさ、祭りのあと、ほんと、死にたくなっちゃって」
「またなの?」
「それで、切りまくったの」
「……」
「続けて、いい?」
「……いいわ」
「部屋で、めちゃめちゃに切って、血だらけになって……」
「……うん」
「ルームメートだった男が、通報して」
「今度はルームメート?」
「救急車より先に、警察が来たわ……」
「……ごめん、コメントの、しようがないわ」
「それからなの、吉田先生のところに、通いはじめたのは……」
私が言葉を返せないでいると、早希が続けた。
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