第9話 病院って……(2)〔勝手の分からぬ場所で、不思議な人に出会う〕

 私はシャワーを浴びて外出着を選んだ。

 甘く見られないように、アパレルショップで学んだ、最高レベルに隙のないコーディネートを心がける。

 メイクもかつてないくらい念入りにした。次々と塗りたくっているうちに、いい具合に現実離れしてきたので、仕上げにコロンをたっぷり振りかけた。


 それから私は家を出て、東神奈川から電車に乗る。

 電車の中でもまだ迷っていた。私は誰に強いられたわけでもないし、このまま遊びにいくことだってできる。

 でもどこへ――? 

 そうして頭の中で、四日間続けた自問自答が繰り返される。


 電車を降りて、プリントアウトした地図を片手に駅を出る。

 もともと読図能力が弱いうえに、頭が混乱し、おまけに蒸し暑いという悪条件の中、同じ路地を何度か巡ったすえに、私はようやく目的地にたどり着いた。


 大きな建物で、たくさんの診療科があり、自分がなぜそこにいるのか知られたくない人でも、人目を気にせず入りやすいとも言える。

 入口の奥に総合受付がある。保険証を出そうとしていると、横から制服を着た女性が近づいてきて、話しかける。


「初診ですか?」

「そうです」

「ご予約はされてますね?」

「ええ」

「何科ですか?」

「……は?」

「何科を、受診されますか?」

「はい……心療内科です」

「ではこちらの問診票に、必要事項を記入してください」

「あの……紹介状が、出てると思うんですが」

「それは先生のほうで分かると思いますので、まずは記入いただけますか?」


 女性は私に問診票を渡すと、すぐに別の患者と話を始めた。


 そんな紙で何を問うのかと思ったら、住所、氏名、年齢、既往歴やアレルギーといった一般的な事柄のようだ。

 記入が終わり、保険証と一緒に受付に出すと、心療内科の待合室に案内される。


 待合室は、二階の少し奥まったところにあった。

 壁に仕切られているわけでもなく、そのまま通路とつながっていて、ある意味開放的ではある。

 思った以上に多くの人が、椅子に座って待っていた。男もいれば女もいる。若い人もいれば年寄りもいる。みんな黙っていて、一見してここがなんの診療科なのか分からない。

 あとはここで待っていればいいらしく、空いている椅子を見つけて腰かける。


 ときどき診察室から看護師らしき人が顔を出し、名前を呼ぶ。

 呼ばれた人が立ち上がり、診察室に入っていく。

 あまり見ちゃ失礼と思いつつ、でもあの人はどんな理由でここに来たんだろう、と気になってしまう。

 たぶんそれはお互い様だ。


 何もせずに座っているのは苦手だが、頭が混乱して以来、本を読むのも、音楽を聞くのも、気が進まない。

 腕を組んで目を閉じ、ひたすら時間をやりすごす。眉間にしわが寄っていたかもしれない。


 右側に座っていた高齢の女性が、私に話しかけた。

 横に置いてあった私のバッグを指さし、意見を始める。一つの椅子をバッグで占領していることが気に食わないらしい。

 私はバッグを取り上げ、ひざの上に抱えた。


 今度は、少し離れたところに座っていた若い女性が、私のほうを見ている。

 私と同年代のようだが、関わり合いになろうとも思わないので、気にしないようにした。


 しかし彼女は、しきりにこちらを向いて視線を送る。

 なんだろうと思い、顔を向けると、目が合ってしまった。

 彼女は席を立ち、こちらに近づいてくる。

 別に話したくもないんですけど……。

 彼女はさっきまでバッグの置いてあった席に座り、声を落としてこう言った。


「吉田先生ですか?」

「……え?」

「あたしも、吉田先生に診てもらってるんですけど」

「……ああ、私、初めてなんです」

「そうですか。あたし、吉田先生のところに、ずっと通ってるんです」

「はあ……」

「ずっとって言っても、まだ一年程度ですけど」


 さっきの高齢の女性が咳ばらいをした。うるさい、という意味らしい。

 若いほうの女性が、さらに声を落として言う。


「あの、どこかで話しませんか?」

「……は?」

「どうせ長いこと待つんだから」

「……やっぱり?」

「この下に、喫茶コーナーがあるんですけど」

「なるほど」

「三十分くらいなら、全然平気ですよ」

「でも……」


 高齢の女性が、また咳ばらいをした。


「ね、行きませんか?」


 眉間にしわを寄せて座っているよりマシだと思い、彼女についていくことにする。


 廊下を抜けて階段を下った。

 先導する彼女の後姿は、何か切実なほどに痩せていて、その体を包み込むように、長袖のシャツを羽織っている。

 私の体もギスギスしているが、それとは痩せ方の質が違うようだ。

 真夏に長袖姿なのも私と同じだが、ただ彼女には、その細さにも関わらず、不思議な女性らしさが漂っている感じがした。


 喫茶室は、診察室の混み方からするとすいていて、確かに時間をつぶすにはもってこいだ。窓もある。

 セルフサービスのコーヒーを注文し、テーブルの一つに向かい合って座る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る