第8話 混乱(3)〔やっぱりその話か……〕
その日も最低限の身支度だけして、外に出た。
電車に乗って、保健なんとかセンターに向かう。
駅を降り、先日プリントアウトした地図を片手に、ようやくセンターの前にたどりついたが、やはり相談室までの最短の経路が分からない。
前回と同じくだいぶ遠回りをして、あの別棟の前までやってきた。
時刻は一時半だった。
約束より一時間早いが、ほかに行くところもないので、自動ドアから中に入り、受付で声をかける。
「すみません――」
しばらく待っていると、予想外のところから、はい、という声がして、廊下の奥から遠藤さんが出てきた。
「あれ、早かったね」
「ええちょっと……。ご迷惑ですか」
「少し待ってね、片づけをしてるので。奥の待合室にいらっしゃい」
小柄な彼女の後姿について歩く。
彼女は見た目の年齢より白髪が目立つ感じがする。
少し猫背で痩せていて、その動きはおっとりしているようでもあり、機敏なようでもある。
待合室の机の上には、折り紙や紙コップが広がっていた。
午前中に子どものプログラムがあって、そのあと、ついさっきまで昼食をとっていたらしい。
「そこで座って待ってて。もう少しで片づくから」
「あの、手伝いましょうか?」
「あ、手伝える?」
「体は動くみたいです」
「そう、偉いわね。じゃあ紙コップを集めて」
「はい」
「……『偉いわね』ってことは、ないわね。さっきまで子どもと一緒だったから。中身が残ってるのは、奥の流しに捨てて」
なんとなく逆らえない感じがしたので、言われたとおりにした。
片づけが終わると、遠藤さんは、二時には相談を始めてくれた。
個室に入り、机を挟んで座る。
「思ったより、元気そうじゃない」
「ええ……まあ……」
「今朝の電話は、蚊が泣いてるみたいだったから」
「動いてるほうが、気が紛れるみたいです」
「そう」
「今日は、ありがとうございます」
「いいえ。どうしたのかしら」
私は頭の中の出来事を話した。
できるだけ順序だてて話そうと思ったが、こんなものに順序があるのかどうか分からない。
少なくとも、時系列にはなるよう心がけたが、それで分かりやすくなったかどうかも不明だ。
遠藤さんは、私の言うことに言葉を挟まず、注意深く聞き入っている。
やがてこう言った。
「何かにとらわれてしまうのは、頭の中の考えだけなのかしら」
「……といいますと?」
「例えば、何か行為に現れたりってことは、ない?」
「……行為?」
「そうね、戸締りを何度も確かめるとか」
「戸締り……。忘れることはときどきありますが」
「それを確かめたりは、しない?」
「いえ、忘れてますし。あとになって気づくので……」
私は遠藤さんが少し怖かった。
阿川さんより口数が少なく、質問も短い。年齢も離れているので、雑談をする感じでもない。私の至らない部分を見抜き、指摘しそうな鋭さがある。
私の話をひととおり聞いたあと、彼女はこう言った。
「森下さん。阿川さんにも言われたかもしれませんが、とてもつらいようだったら、医師に相談するのも、一つの方法だと思いますよ」
私が黙っていると、遠藤さんは言葉を続けた。
「気持ちが落ち込むこともあるんでしょ? 一番つらいときに、またこうしてすぐに話を聞けるかどうか分からないし」
「……こういう相談では、だめなんですか?」
「これからも、お話しは聞きますよ。でもそれ以外に、医師に相談すれば、必要な薬を処方してくれたり、適切なアドバイスももらえるかもしれません」
「……」
「いろんなセラピーやプログラムもあって、その中から自分に合うものを、選ぶこともできますしね」
「……ほかに、方法はないんですか?」
「ほかにって?」
「……それで、何かが変わるんですか?」
「……薬やセラピーだけで、何かが変わるわけじゃないと思うわ。ただあなたが闘うのを、助けてくれるかもしれない、ということじゃないかな」
私が再び黙っていると、遠藤さんは言葉を続ける。
「今のままで、打開策があればいいんだけど」
「……でもそれで、どうなるんですか?」
私はようやく言った。
「どうなる、とは?」
「……元に、戻れるんですか?」
遠藤さんは少し考えてから言った。
「通院しながら、勉強したり、仕事をしたりしている人は、たくさんいますよ」
私は自分の気持ちをどう伝えていいか分からなかった。
遠藤さんは黙って私を見ている。
私はしばらくうつむいたまま考えたあと、こんなことを言った。
「なんだか、自分一人がはぐれてしまって……。気づいてみると、笑えないほど遠くに来ていて……。元いた仲間のところに、二度と戻れなくなるような、そんな気がして……」
遠藤さんは、私の言葉を聞いていたが、やがてこう言った。
「大学に、戻りたい?」
「……よく分かりません」
遠藤さんは、少し待ってから言った。
「あなたがどちらへ行くべきなのか、それはやさしい問いではないし、答えは一つじゃないのかもしれない。ただ、あなたは成長しているんだから、良くも悪くも、ただ後戻りするということは、できないんじゃないかな」
「……」
私は医師の紹介を受けることにした。
遠藤さんが紹介してくれたのは、ある心療内科の医師で、紹介状も書いてくれるという。
センターに併設されている診療所ではなく、外部の民間病院で診療しているらしく、普通、急な予約は取りづらいが、問い合わせてみたところ、今から四日後には診てくれるとのこと。
それでも時間の予約まではできず、待合室でそれなりに待つことになるようだ。
「四日待っても、まだ待つんですか」
「もっと前もって予約できれば、そうでもないんだけど」
「……」
「どういうわけか、いつも人で一杯なの。紹介状は先生に送っておくけど、四日あるから、そのあいだによく考えたらいいわ」
「……ええ」
「それまで、頑張れそう?」
「……多分」
「困ったことがあったら、連絡してね」
「……ありがとうございます」
相談の時間は終わった。
個室から外に出ると、これから続くだろう長い時間に、気が滅入りそうになった。
一人になったら、また混乱するかもしれないとも思った。
入口の近くに、ちょっとしたミーティングができる丸テーブルがある。
遠藤さんにつれられて、その前を通りかかると、私は意味もなく、壁際の椅子に座り込んだ。
遠藤さんは、立ち止まったまま私を見下ろしている。
「しばらく、そこに座ってる?」
「……」
「仕事の邪魔しないなら、座っててもいいわ」
「……邪魔は、しません」
「じゃ、どうぞ」
「役にも、立ちませんが」
それから遠藤さんは、事務室で書類を書いたり、ときどき電話や来客の応対をしたりした。
客の一人は、ぽつんと椅子に座っている私を不思議そうに見ていたが、遠藤さんが、この人は学生さんだ、と説明すると、ああ、と妙に納得していた。
手持無沙汰だが、ここを離れてどこへ行くこともできない。
路上に座り込んでいる酔っ払いに、どこか似ている。
そうして座っていても、思ったほどに頭は混乱しなかった。
むしろ私は、四日後に予約した病院のことを、しきりに考えていた。
確かにこのまま家に閉じこもっていたって、たぶん事態は変わらない。
ただ、何か高価な商品を勧められたときのような、迷いが拭い去れなかった。
エアコンが効いて、少し寒くなった。でも言い出せず、体を縮めて座っていた。
テーブルの上に、未使用の折り紙が残っている。鶴でも折ろうと思ったが、自分が本当に子どもに見えそうなので、やめておいた。
時刻は五時を過ぎた。日が長いので、気づかなかった。
「森下さん、帰ろう」
遠藤さんは言った。
少しは役に立とうと、最後の片づけや戸締りを手伝った。
相談室を出ると、遠藤さんに正門までの近道を教えてもらった。
そして二人で駅まで歩く。
遠藤さんは、ほとんどしゃべらなかった。
同じ電車に乗り、二人で吊革につかまった。
並んで立つと遠藤さんは小さく、夕方の混雑の中で、頼りなさそうに見えた。
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