第8話 混乱(2)〔逃れきれず、再び助けを求める〕

 シャワーを浴び、最低限の身づくろいをして外に出かけた。


 夏本番でも午前中はまだ爽やかさが残る。

 お金を使わずすむよう、自転車を走らせた。ペダルとハンドルの重さ、風を切る感じ、通り過ぎる音や景色――。家にいるより、はるかにいい。身の回りの世界に現実味がある感じがする。


 私が向かったのは、地域の図書館だった。

 ここはエアコンが効いていて、しかも無料で利用できる。


 中に入ると、午前中にも関わらず人が多く、すでに夏休みに入っているのか、私と同年代の子たちも少なくない。

 これで私だけ目立たずにすむ。


 私は書架に向かい、勉強してる風に見えるダミー用の本と、肩の凝らない写真中心の本を選んでから、空いている席に座った。

 はす向かいに、同年代の男の子が座って勉強している。

 まっすぐな髪を額の上で分け、コットンのシャツを着ている。

 その彼が、私のほうをちらりと見たようだ。

 お、あの子は誰だ、そういう目つきなんだろう。

 別に私が変人に見えたからではない。私はどこから見たって、読書に訪れた、休み中の学生だ。私自身、ほとんどそう思いかけた。


 そのとき、私の頭が待ったをかける。


 ほら、例の問題を忘れたのか。

 あの天井の模様や、音楽を、おまえは気にしていたんじゃないのか。

 そう、この図書館にだって、気になる模様や音が、あるかもしれないぞ。


 ――私には再び動き出した考えを止めることができない。


 私は写真の多いほうの本を開いた。

 文字を常に目で追わずにすむ分、読んでいるふりをしやすいからだ。


 男の子がときどきこちらを見ている。

 夏なので私が薄着だったせいかもしれない。

 私は人の目を意識して、なおさら平静を装おうとした。わざとらしくあくびをしてみたり。


 しかしここでいう平静とは、見られることを気にしないという意味ではない。

 頭の中でぐるぐる回っている妙な考えを、決して外には現さず、私以外の誰にも気づかせない、という意味だ。


 だって、もし人が知ったらなんと言うだろう。

 例えば私の頭が透明で、中身がみんなに見えたとしたら……。

 みんな私に同情してくれるかもしれない。

 私を図書館から追い出したり、利用を禁じたりもしないかもしれない。

 しかし私を、みんなと同じ意思や役割をもつ仲間として、見なしてくれるだろうか。

 あの男の子は、今と変わらぬ好奇心で、私を見続けてくれるのだろうか。


 私は読書に集中しようとした。

 ただ私は、元々こんな本が読みたかったわけじゃない。


 それで私の頭は、やがてその本の中にも、やっぱり気になるものを探しはじめる。

 このページの折れ目は、なぜこんなふうについているんだろう。この写真は、なぜこの位置にレイアウトされているんだろう。

 本を眺めているうちに、私はますます自分の考えにとらわれていく。

 このままじゃまずい。


 たまらなくなって、思わず立ち上がった。


 男の子がこちらを見る。

 私は取り澄ましたように、その場を歩み去る。でもどこへ?


 自分の行動が不自然にならないよう、とっさに考えた。

 とりあえずトイレが無難だろうか……いや別に行きたくないし。

 そうだ、受付の人と話してみよう。

 私はゆっくり歩みを進め、受付へ向かった。


「あのすみません」

「はい、なんでしょうか」


 受付の女性は、予想外に笑顔が素敵だった。


「貸出カードを、なくしたみたいなんですけど」


 われながらうまいことを言う。

 今日は本を借りるつもりはないし、カードは持ってきていない。


「あ、そうですか。見つからないようであれば、再発行できますが、どうされますか?」

「探したんですけど、ないようなので、お願いします」

「では登録を確認しますので、お名前と住所をいただけますか?」


 短めにカットした髪をざっくりと分け、陰りのない笑顔を浮かべる彼女は、どこか遠い世界の住人のようにも見える。


 名前と住所を伝えると、彼女は私の登録を端末から呼び出し、貸出カードの再発行のため、何やらキーボードで入力を始める。


 いったいそこに、私に関するどんな情報を書き込むのだろう……などと思いながら、彼女の姿を眺めていると、なんだか彼女のシャツの模様が、私の部屋の天井に似ている気がした。

 ――実際は、たいして似ていなかったのかもしれない。ただ、もし似ていたら、という仮定だけでも、私には十分だ。

 私は目をふさぎたくなった。


 やがて貸出カードが出来上がった。

 彼女は素敵な笑顔のままで、私の頭の中の混乱など、気にも留めていないようだ。

 なのに私は何をしている? カードをなくしたなんて嘘をついて。


 私はなんとか人間らしいお礼だけ言うと、自分の席に戻った。

 男の子は、もうそこにいなかった。

 そうだ、いないほうがいい。私の近くには、誰もいてほしくない。

 私もきっと、この図書館にはいないほうがいい。

 私は本を書架に戻し、そのまま外に出た。


 ファストフードの昼食をとって、午後はエアコンの効いたショッピングモールをあてもなく歩き回った。

 店から店へ、一階から二階へ、そして三階からまた一階へ戻り、さっきと同じ店と店を見て回る。

 もともとなんの用事もないし、人前で平気な顔を保ち続けるのもしんどいので、一か所に留まっているということができない。

 やがて歩き疲れると、ほかに行くあてもなく、休みを取れる場所もないから、あとは自転車に乗って、帰宅する以外になかった。


      ◇


 その夜は、外出して体を動かしたせいか、比較的早く眠ることができた。

 しかし頭の中の混乱した考えは、夢の中にも普通に現れようになった。


 朝になると目が覚める。

 私は自分の部屋にいる。

 そこは私が一日のほとんどの時間を過ごし、私が逃げ込むことのできる唯一の場所だ。

 でも今では、天井の模様や、汚された音楽や、次々に現れるたくさんの気になるもので満ちている。

 これ以上、どこに逃げればいい?

 私は追い詰められた気分だった。


 部屋を出て一階に下り、母を探した。

 母は居間でエアコンをかけ、家計簿をつけている。

 私は母の視界に入るように立ち、こう話しかける。


「ねえ……」

「……ん?」

「あのさ……」

「……どうした?」

「なんか……変なの」

「……何が?」

「なんていうか、頭の中が」

「……変な虫でもいた?」

「だから、頭の、中が……」

「どういうこと?」

「いろんなものが、気になって……」

「……気になるって?」

「天井の、模様とか」

「……え?」

「お母さん、今日も、寝ぐせがあるよね」

「……何言ってるの?」

「あと、音楽を聞いてると、いろんなところが……」

「ごめん、言ってることが分からない」

「だから、気になるのよ」

「分かるように言って」

「だって私にも、分からないもん!」

「……変な夢でも見た?」

「……見たわ」

「ずっと家に閉じこもってるからよ。今日もどこかに、出かけてきたら?」


 母に説明するのは断念し、そのまま居間のソファで過ごす。

 頭の混乱は止まらず、だんだん切羽詰まってくる。


 たぶん、誰かの助けが必要だ。


 それで私は、カウンセラーに電話することにした。

 二階の部屋に戻り、このあいだもらった相談カードを取り出す。相談時間は午前十時からで、もう始まっているはずだ。

 携帯電話のボタンを押すと向こうから発信音が聞こえ、続けて女性の声が聞こえる。


「はい、こころの相談室です」

「すみません、阿川さん、いますか?」

「どちら様ですか?」

「こないだ相談した、森下といいます」

「ああ……森下さんね。今日、阿川は非番なんですよ。どうかしましたか」

「あの……ちょっと……。頭が、混乱して……」

「頭が……? どんなふうに?」

「……なんていうか、いろんなものが、気になりはじめて、止まらなくて……」

「気になるとは?」

「どこへ行っても、何を見ても、気になるものが次々に出てきて、頭から離れないというか……」

「いろんな考えに、とらわれちゃうのかな?」

「……そうですね」

「とってもつらい?」


 私は、このままじゃ自分がどうにかなっちゃうんじゃないかと言った。


「今、自宅から?」

「そうです」

「私のこと、覚えてる? 待合室で質問票を渡した、遠藤です。つらいようだったら、私が話を聞きましょうか?」


 私は、お願いしますと伝えた。


「どうする? こちらへ来る?」

「電話では長く話せませんし、行ってもいいですか?」

「午後からなら会えるわ。大丈夫? 頑張れるかな?」

「昨日も外出したし、大丈夫だと思います」


 二時半に相談の約束をして、電話を切った。


 ベッドに横たわり、額に手を当てて目を閉じる。

 そのまま時間まで耐えようとも思ったが、結局じっとしていられず、再び一階に降りてシャワーを浴びた。

 これから人に会うという意識がそうさせたのだと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る