III. 混乱

第8話 混乱(1)〔今度は、頭の中の考えに追われる〕

 梨子からのメールは来なくなった。

 私の言葉を考えてくれたのか、それともこんなやつには見切りをつけたのか。

 あいつのことは忘れたかったが、なぜか私はときどきパソコンを開き、メールをチェックした。

 あいつを自分の生活から追い出したのは、私自身だった。


 何もない毎日が戻ってきた。

 一時の興奮はすぐに薄れ、気持ちは静かに沈んでいく。

 相変わらず部屋の中でばかり過ごしていたが、八月に入るとエアコンをつけるようになった。

 特に午後からは、母も留守にすることが多く、エアコンをつけるなら、広い居間よりも、狭いあなたの部屋にしなさいと言われていたのだ。


 この快適な部屋で、枯れたように眠れたら。

 でも枯れてしまうには、私は若く過敏だった。


 私は毎日思い切り寝坊しているくせに、自分が不眠だと思っていた。

 明け方になると、ようやく眠りに落ちる。

 ただ眠っていても、どこか意識が目覚めている。夢を見ても、それが夢だと分かり、逆に目を覚ましたと思うと、それがまた夢だったりもする。


 金縛りも経験した。それが超常現象とは思わなかったが、楽しい経験ではない。


 子どものころから繰り返し見る夢がある。


 一つは、踏切の中で転び、遮断機が下りているのに動けなくなる夢。


 もう一つは、もっとつかみどころのない内容で、私は何か取り返しのつかない過ちを犯し、懸命に取り繕うが、やがて地の底から延びた黒い影が、世界の背後でぐらりと動き、私の責任を問い、私にのしかかり、覆いつくしてしまう、といった夢だ。

 私を追い詰めようとする何かを退けようと、眠りながら声を上げ、手足を振りまわし、思い切り壁にぶつけて、目覚めたらシーツが血に染まっていたこともある。

 母には、鼻血が出たと言い訳しておいた。


 体のリズムも定まらない。

 暑いのに悪寒がすると思うと、急に汗が吹き出たりする。


 そのくせ体の健康をすっかり損ねることはなく、母がどこかから珍しいフルーツをもらってくると、食卓できちんと平らげる。


 こんな不調を、いったい誰が気にするんだ。

 母でさえあまり立ち入らず、距離を置いているようだ。


      ◇


 そんな生活を続けているうちに、頭の中の考えが、ますますまとまらなくなった。

 まとまらないというより、止められなくなるというのか。


 この話をしても、十中八九理解されないのだが、やはり触れておかないわけにはいかない。


 最初は、天井の模様だったと思う――。

 ベッドに横たわると、天井の壁紙が見える。

 いくつかの線や形が、半規則的に並んでいるのだが、私はそれらの線や形が、なぜその位置の、その順番にあるのか、妙に気にかかるようになる。


 私はそこから何かの意味や法則を探ろうとしたわけじゃない。

 ただ長く見慣れたはずの模様が気になるということ、そんなものを気にするのは馬鹿げているということ、そしてそのことが私を困らせるということがポイントらしい。

 でも困れば困るほど、さらに自分を困らせるように、私はその模様を気にしてしまう。


 私は毛布をかぶって音楽をかける。

 新しい音楽は刺激が強いので、聞きなれたものしかかけない。


 すると今度は、その聞きなれた音楽のあるメロディが、なぜか気にかかるようになる。

 ここでも私は、そのメロディに込められた意味合いとか役割とかを探ろうとしたわけじゃない。

 ただ聞きなれたはずのメロディがなぜだか気にかかり、それが私を困らせる、ということがポイントのようだ。


 つまらないことは考えるな、と自分に言い聞かせてみる。でも私はほとんど冷や汗をかきながら、やっぱり同じメロディに聞き入ってしまう。


 疲れているんだと思った。


 事実、眠っているあいだは、模様も音楽も忘れることができる。

 しかし目を覚ますと、また思い出す。


 ほら、天井を見てごらん。音楽を聞いてごらん。


 試しに違う音楽もかけてみる。

 すると私はその音楽の中にも、気になるメロディを新たに見つけ出す。

 お気に入りのメロディが、そうして次々に汚されていく。

 たまらなくなって音楽を切る。


 ふとベッドを見ると、今度はベッドカバーの幾何学模様が気にかかる感じがする――。


 そんなことが繰り返される。


 少し怖くなって、母が在宅のときは部屋にこもらず、なるべく近くにいるようにした。

 母は変わらず無頓着で、家事をこなしながら、なぜか自分につきまとう私をちらちら見ている。


 この母になんと言おうか。

 静かな午後、私の頭の中の奇妙な考えを披露することなど、ありえない気がする。


 私の考えは、外に現れない。

 例えばわれ知らず手が震えるとか、表情が歪むとか、背中がかゆくなるとか、そんなことでも起これば、母だって気づくだろう。

 しかし私の外見は、不規則な生活で少し青白い以外は、何も変わらない。


 だから私も、平気を装おうとする。

 いつもの私を演じようとする。

 頭の中がどんなにぐるぐる回っても、いつもどおりの振る舞いをしていれば、私は私を台無しにすることなく、私でいつづけることができる。

 すべては私の意志と集中の力にかかっている。


 そうして家事をする母を見ていると、今度はその母の髪型が気になる感じがする。

 寝ぐせなのか、パーマの失敗なのか、右の頭のてっぺん近くが、ぴょこんと突き出ていて、そこから意識が離せない。

 これ以上見ていちゃいけないと思い、再び二階の部屋に戻る。


 見るもの聞くものすべてこれでは、気の休まる暇がない。

 私は両手で顔をふさいで、ベッドの上に座り込む。

 このまま寝てしまおうか――。いわゆる寝逃げ。

 でも睡眠は十分で、すぐに眠れそうにもない。

 とりあえずベッドに横たわり、目を閉じて、ひたすら時間をやり過ごす。


 どのくらい経ったろうか、ようやく眠りが訪れた。


 私は夢を見ている。

 誰だか友人らしき一人と話をしている。

 ふと見ると、その友人の服が、部屋の天井と同じ模様をしているのに気づく――。

 なんだこれは、悪夢じゃないか。


 目が覚めたら朝だった。


 ついに夢の中にまで現れたか……。

 もう逃げ場がない。

 そうだ、思い切って外に出よう。少しは気が紛れるかもしれない。

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