第7話 梨子との約束(4)〔勝ち組も負け組も、似た者同士の紙一重?〕

「あなた、近視?」

「……え?」

「いつもメガネかけてるじゃない」

「ええ、近視と、それから乱視も混ざってるわ」

「いいメガネよね」

「……どういうこと?」

「高いんじゃない?」

「度が特殊なので、安くはないわ」

「ちょっと見せて」

「……え?」

「見せてよ」


 彼女は素直にメガネを取って、私に手渡した。

 私はそのメガネを見たが、実はメガネに興味はなかった。


 メガネを外した彼女の顔は、窓から射し込む陽に照らされ、なんだか生々しい。

 思春期の名残があって、キメが細かく、無駄に潤いがある。

 チェーン店の変わらぬインテリアの中で、そこだけが際立って見える気がした。


「可愛い顔してるじゃない」

「……」

「アイドルみたいよ」

「……やだ、よしてよ」

「これからメガネはやめて、素顔で勝負したら?」

「ふざけないで」

「外したら、全然見えない?」

「返してよ。メガネを取ると、頭痛がしてくるの」

「じゃあコンタクトにしたら?」

「返して」

「ジャーナリストも、顔が大事だと思うわ」

「お願い、返して」

「返してほしい?」

「いじわるしないでよ」

「奪い返してみたら?」

「なんで人の嫌がることをするの?」

「嫌がることをしたのは、あなたのほうよ」

「どうして?」

「私が嫌がってるのに、しつこく連絡してさ」

「だから、心配してるだけだって」

「そんな減らず口をたたくなら、返さないわ」

「やだー、やめて」


 だんだん真顔になる彼女に、私は言った。


「じゃあ約束しさい。もう二度と連絡しないって」

「そんな……」

「約束しないと、返さないわ」

「よして」

「約束しないの?」

「ジュンちゃん、ひどい」

「じゃあこのメガネ、たっぷりコーヒーの中に、浸けちゃおうか?」

「やめてよ」

「じゃあ約束しなさい」

「まるでいじめっ子じゃない」

「何がいじめっ子よ」

「だって、あまりに古典的なやりくちだわ。中学生レベルね」

「そう言えば、私が怒るとでも思った?」

「事実を言っただけよ。中学のクラスメートでも、そういうことする子がいたもん」

「嘘ばっかり」

「本当よ。ジュンちゃんみたいに、おっきな子たちでさ」

「何よそれ」

「しゃべり方なんか、あなたにそっくりよ」

「冗談じゃないわ」

「今でも思い出すわ。人を威圧する、そういうやりくち」


 今度は人をいじめっ子呼ばわりか。その手にも乗らない。


「『そういうやりくち』って、どういうやりくちよ?」

「体の暴力に、数の暴力を加えて、私の自由を奪うのよ」

「そりゃ大変ね」

「言葉の暴力もあるわ。みんな私のことを『メガネ』って呼ぶの」


 私は声を出して笑った。

 彼女は裸眼を見開いて言う。


「何がおかしいのよ」

「だって、メガネかけてたんでしょ?」

「そういうことじゃないわ……。ジュンちゃんも同じよ! 私のこと、ただのメガネだって思ってるんでしょ」

「そんなこと、言ってないじゃん」

「でも思ってるんじゃないの?」

「……思ってたって、私は言わないわ」

「ほら、やっぱり!」

「思うと言うとでは、大違いよ」

「そういう考えから、人格の軽視が始まるのよ」

「関係ないわ。名前なんて、どうでもいいのよ」

「全然よくない!」


 人を糾弾することで優位に立とうとする、その根性が気に食わなかった。


「急に被害者面をするの、やめさないよ」

「被害者面なんてしないわ。私、そんな子たちに負けなかったもん」

「へー、反撃でもしたわけ?」

「私が何をされて、どんな思いをしたか、ジュンちゃんには分からないでしょう。力ではとてもかなわないわ。だから私、あの子たちのすることには、一切取り合わないことにしたの。わが道を行くだけよ。授業中にはしゃべらずに、自分のために先生の話を聞くの。休み時間には本を読んだり、図書館に行ったりするの。止むことのない痛みと怖れに耐えながら、見えないところで、人一倍の努力はしたわ。それは今でも続けているの。あの子たちが今何をしてるか、私は知らない。あの子たちを見返してやろうなんて、今さら思わないけど、でも私、絶対に負けてないから!」

「それ、話が違うじゃん!」


 私は言葉を返した。


「そんなふうに、自分を閉ざしちゃダメなんでしょ? メガネ呼ばわりされようが、何されようが、一人で本なんか読んでないで、お友達に心を開いて、エニシを深めればいいのよ。言行不一致ね」

「人にはできることと、できないことがあるわ。攻めるか守るか、適切な『時』ってものがあるのよ」

「苦しい言い訳ね。じゃああなたは、どんな『時』を過ごしたのよ」

「どんなって……」

「不登校にでもなった?」


 彼女は予期せぬ忌み言葉でも聞いたように絶句し、やがて言った。


「……なんてひどいことを言うの?」

「何がひどいのよ。だって今は、私が休学してるのよ」

「ジュンちゃんが、そんなことを言うなんて思わなかった!」

「何を言ってるの。自分のしたことを棚に上げて」

「棚に上げてなんか、ないわ!」

「今は自分が勝ち組のつもりでいるんでしょ。親切なふりして、休学したやつがどんな面をしてるか、見にきたんじゃないの?」

「どうして? そんなことない!」

「私の気持ちを、少しは考えた?」

「考えたわ! 学校を休んじゃいたい気持ち、私には分かるもん」

「それが思い上がりなのよ!」


 すると彼女は挑むように言う。


「じゃあジュンちゃんは、私の気持ち分かるの? 力を笠に着て、人をやり込めて……」

「そんな簡単なものじゃないわ。私はね、もう自分しか頼る人がいないの。だから使える力は、なんでも使うのよ」

「都合がいいのね。あなたたちの言い方って、いつもそうよ」

「あなたたちって、何よ。変なやつらと一緒にしないで」

「だってそうじゃない。本当は弱いくせに、すぐ徒党を組んで、自分たちより弱い者をいじめるのよ」

「全然違うわ。私、いじめるなら、一人でいじめるもん。徒党を組んだりしないわ」

「いじめることには違いないじゃない!」

「違うわよ! 私、自分を強く見せるために徒党を組むのは、大嫌いなの」

「そうね、徒党を組む相手も、いないもんね!」


 私は頭に血が上り、メガネを外した彼女の横顔を、平手で張り飛ばした。

 周囲の談笑が止まり、多くの視線がこちらに向かう。

 彼女は頬を手で押さえ、私を見ている。


 店員が横に立っていた。

 私も立ち上がり、上から見下ろしてやると、彼女は怯んで後ずさる。

 すると奥から、正職員らしい男性がやってきた。きっと店のマニュアルを超える出来事だったのだろう。


「お客さん、困ります。何度注意しても、お聞きいただけないなら、もうお引き取り願えませんか?」


 負けずに彼の顔を見返すと、彼はかまわず私に一歩近づいた。


「周りのお客様にご迷惑です。お引き取りください」


 相手が学生だし、とにかく追い出すことに決めたのだろう。私はやむなくバッグを取り上げ、出口へ向かおうとする。

 しかし彼女がもたもたしている。


「あんたも一緒よ。早く来なさい」

「メガネ返して」


 私はメガネを手に握ったままなのに気づいた。

 指紋だらけになったメガネを、彼女に突き返した。

 私は伝票を取り上げレジまで向かい、二人分の支払いをして外に出た。

 メガネをかけなおした彼女が、あとに続いた。


 私はまっすぐ駅へと向かった――これ以上話すことは何もないし。彼女もあとに続く。

 駅まで歩いて二、三分。だが、長く感じた。

 駅に着くと、二人は無言のままICカードを取り出し、改札を通る。

 プラットフォームに着くと、彼女が口を開いた。


「お金、払う」

「何?」

「コーヒーのお金」

「どうでもいいわ、そんなの」

「やだ、払う」

「くどいわね」

「……そういうの、パターナリズムっていうのよ」

「じゃ、払いなさい」


 彼女はお金を取り出し、私に手渡す。


「ジュンちゃんもひどかったけど、でも、私もひどいことを言ったわ」

「だから、どうでもいいわ」

「よくない」


 私は無視して黙っていた。


「私の言ったことは謝るわ。でもジュンちゃんだって……あんなことしたら、すべてが台無しになってしまうじゃない」

「まだ私を糾弾するわけ? あなた、自分のすることなら、どこか許されるって思ってない?」

「……もうよして。そんな議論したくない」


 私は何も言わなかった。


「ジュンちゃんは、あんなことを言うけど、でもこれだけは分かって。私は私なりに、ジュンちゃんのこと心配してたの。ほんとよ」

「……」

「ねえ、分かって」

「それは、口で言うことじゃないの」

「……え?」

「行動で示して」

「行動って……」

「もう私の生活に、立ち入らないで。そしたら、信じてあげる」

「……ジュンちゃんって、なんていうか、潔癖すぎるわ」

「……」

「それじゃ、つらいでしょ?」


 電車の到着を告げるアナウンスが流れる。


 言葉を返そうか、このまま黙っていようか、迷っていると、電車が音を立ててホームに滑り込む。

 二人は電車に乗り込んだ。彼女は都心まで。私は東神奈川まで。

 二人は何も言わない。


 東神奈川に到着すると、彼女は私のほうを向き、右手を差し出した。


「ねえお願い、握手させて」


 その笑顔が気に入らなかった。

 私は彼女の右手を、自分の右手でぴしゃりと弾き飛ばした。

 振り返らずに電車を降り、改札を出て家へ向かった。


 家に着いたら、服を脱ぎ捨て、頭からシャワーを浴びた。

 自分の部屋に入り、ベッドに座ると、涙があふれた。

 ここ数年ぶりに、声を出して泣いた。

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