11-3怒り

 甘く、痺れ、酔うような香りが漂い、鼻の奥をくすぐる。気付けば白いかいなを回されていた。

 柔らかで滑らかで芳しく、燈吾とはまた違う、女の質感。いつか駒を組み敷いた時を思い出した。聞き心地の良い声が、耳に溶かし込まれる。


「可愛いかすみ、我が愛し子。この腕に抱く日を狂いながら夢見て生きてきた」


 顔をよくお見せと、顎に指を添えられた。自分よりも背の高い女を見上げる体勢になる。

 阿古の青鈍色の眼に己が映る。あたしにそっくりだねえ、赤黒毛も粋だ、何より肌が若い。

 潤むような阿古の口調とは裏腹な掠れ声が漏れる。


「どうして、」


 どうして、どうして、どうして――乾き、ほつれ、千切れ、最早紡げない問いが口を突く。


「おまえのおかげさ」


 機嫌良い笑みが降り注ぐ。同時に傷口からぼたり、血雫も落ちてくる。阿古はこちらの言を好き勝手に受け取り、


「あたしは二十年前、山姫の依り代――オクダリサマとなったが、承認を得なかったから、ひどい気狂いに陥った。そもそも黒山の力の源は女らの怨念。あたしとは相性が悪い」


 明晰な口調だった。とても気狂いとは思えない。両の頬を押さえられ、愛の言葉をささやくように、阿古は顔を寄せてくる。


「でも、十年前、おまえは黒沼問いをしてくれた」


 肩が強張る。八歳の自分が犯した罪――母親殺し。頬に鋭い爪が立てられるのではと、身構えるがその指先は優しげに輪郭を撫で回すのみ。


「感謝している。ありがとうよ」


 その謝辞は皮肉の色を帯びていなかった。


「オクダリサマとなるには、黒沼問いは必須。黒沼問いは黒山に渦巻く記憶を受け容れること。だけど、黒沼問いを経験した大方の娘は膨大な記憶に混乱し潰され溺れ、生還したとしても気狂いになっちまう。おまえも視たろう、あの幻惑を。黒沼に溜まりに溜まった怨み、辛み、憎悪を」


 そう、自分は視た。恋と憎しみは紙一重。とどめられない、人の業。


「だけど、あたしは狂いながらもなんとか黒沼問いに持ち堪えられた。それからは、かすみ、おまえをずっと見守っていた」


 見守られてきた、ずっと……ずっと、ずっと、燈吾と出会うまで自分は一人きりだった、そう思って生きてきた。


「あたしは知っている、おまえが里で苦境にあっていたことを。可哀相にと慰めてやりたかったが、オクルイである身では、心のままに動けない。

 だから里で他の誰にも侵されない力を与えてやろうと考えた。孝行娘を、次のオクダリサマに任じようと、山に天に川に獣に虫に、知らしめた」


 日々、絡みついてきた白銀の糸を思い起こす。オクダリサマの兆候シルマシ

 里で辛かった、苦しかった、悲しかった……単純に認めてほしかった。


「おまえはあたしが推す次のオクダリサマの筆頭だ。そのおまえに、あたしは救けを求められた。そしておまえは黒沼問いから生還した。あたしは正式な儀式に則っていなかったが、おまえに求められたことでオクダリサマと認められ、おまえもまた次のオクダリサマとして認められた」


 是、是、是、是、是、是是是是是是――

 あれは黒山の承認であり讃頌さんしょうだったか。

 阿古は微笑む。額を撃ち抜かれ、幾筋もの血を流した真白い面で。


「あたしたち母娘は互いに支え合っている。今は、黒沼の記憶も折半しているから、意識が明瞭でいられるんだよ」

「……折半」

「安是や寒田の愚か者など皆殺して、あたしらで新しく黒山を治めようじゃないか。かつての山姫と妹姫のように」


 母。母御。かあさん――

 それに、と女の笑みが深まった。 


「おまえの背の君はいい男だねえ。狂ったあたしにも礼節を欠かさない。

 長年見守ってきたが、おまえは年頃になっても光らなかった。光は安是女の証、オクダリサマの絶対条件。おまえが初めて光った時、あたしがどれほど嬉しかったか。初夜を迎えた夜は、おまえ以上の喜びだった」


 初夜――当事者以外にあれこれ詮索される事柄ではない。見守っていたとは耳さわりが良いが、要は覗き見していたということか。

 睨み付ければ、阿古の顔がぐにゃりと溶けた。まさか視線にそんな力があるはずもない。違う、傷口から白蛭が湧き出したのだ。端正な面と醜怪な蛭。その対比がさらにおぞましさを産む。蛭が傷を埋めたかと思えば、顔は傷一つ、皺一つないものとなる。

 その顔で、女は笑いかけてくる。あの男、分けないか、と。


「今のオクダリサマはあたしだ。半分くれるなら、背の君を呪いから解き放ってやろう」


 それにと、阿古が笑みを深める。


「あたしなら、燈吾をもっと悦ばせられる」


 耳が捉えた音が、自身の雄叫びだと気付くには、時間がかかった。

 今は無手、短筒は弾切れ、小刀も燈吾へと燐に託した。咄嗟、目についた施条銃を拾い上げ、阿古の顔に向けて撃つが弾切れで、勢いのまま施条銃で殴り掛かる。呆気なく倒れた女に馬乗りとなり幾度となく振り上げる。その柔らかな頼りない感触にさらに血が昇る。

 誰より尊い夫を穢した。言葉の上とて許せない、許せない、許せない!

 そう、許せない、許せないでしょう?

 阿古を殴り付ける影が一つ二つと増えていく。幻視であるとわかっていたが、流れ込む嫉妬に抗う気もしなかった。許せない、許せない、許せない、娘らの波立つ気持ちに同調し増幅する。杭を打ち込んじまおう、どこに、あそこに、女のうろに、二度と男を咥え込めないように!


「やめよ、かすのみ、やめよ、気狂うたか!」


 腰回りに重みがかかり、手を止め、肩で息を吐く。

 そして見下ろし、自分が馬乗りになり、殴りつけていたものが、さきほどまで美舟が横たわっていた布団だと知った。


 ――あたしの娘だろう、もっと頭を使いよ。


 その笑い含みの声が実際の音か、頭の中に響いただけなのか、判別がつかない。なぜなら、赤光はすでに遠く木々の影と歪な山並みに沈みつつあったから。


 


 寄合所は四十人ほどの老若男女の里人で埋まっていた。かすみと美舟が足を踏み入れると、騒めきが広がる。

 それは当然だろう。指導者たる芳野嫗――実のところ美舟であるが――の帰還は喜ばしい、だが、災厄の娘を連れてくるとは。

 先だって、自分は阿古と寒田男を引き連れて安是に里帰り・・・をした。見ようによっては、かすみが阿古に命じて殺戮を行ったと思えるだろう。それでも、暴動が起きないのは、美舟を連れ戻ったのと、川慈の言い含めがあったからか。

 所内は、要所要所に灯りはあるものの、暗い。里人が何か言い出さぬうちに奥へと進む。

 駒や叶、娘宿の同輩もいるのだろう。地揺れにより幾人かは亡くなっているかもしれないが。

 里人の視線の中、俯き加減に進む。治りきらない足の怪我ゆえ、ゆっくり、なれどできるだけ早足で、一番奥まった壁際まで来ると、物言わず腰を下ろした。

 近くにいた里人は、かすみから離れようと、狭い中さらに身を寄せ合う。その中には、子連れも、老人もいた。自分を中心に半円形の空間ができる。にも関わらず、耐え難い息苦しさを感じた。


 ――オクダリ、呼ばれて膝に埋めていた顔を上げれば眼前に川慈がいた。半時ほど経過した頃だろうか。


「嫗を連れて来てくれて礼を言う」

「わかっているの、あれは」


 周囲を気にしつつも声を潜めて告げる。美舟は阿古の報復の対象だ。美舟を狙って、再び阿古が寄合所を襲うかもしれない。だからこそ、美舟も倒壊しかけた自宅に残っていたのだろう。

 川慈は、それでも嫗は皆を落ち着かせるのに必要だと首を横に振る。俺には手に余ると。

 そう言われるのは、美舟にとって誉れなのか、名折れなのか。ねじれた関係には違いなかった。


「……すまんが、下へ移動してもらえないか」


 下――地下牢。本題はこちらか。川慈はすまなそうな顔をして、今から寄り合いが開かれると、馬鹿正直に言ってくる。


「あとで食事を届けさせる」


 あの異臭漂う牢で食べろというのか。呆れは生まれたが、それでも怒りは燃えず、また、要らないとも返さなかった。

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