10-3営み

 なにがおきているの、という漠とした問い掛けに返ってきたのは、わからん、という端的な言葉だった。

 木々の間から見下ろす黒沼は黒々と滔々と満々と常と変わらないようで、実のところ水位はかなり上がっている。


「気付いた時にはお前と二人、黒沼の湖畔に打ち上げられていた。それから落ち着けるところを探した。庵も覗いてみたが、黒水が迫ってきていてな。入り用なものだけ選び出して、こちらに落ち着いた」


 誰ぞ狼藉者の手が入ったようで気に喰わなかったせいもある、と珍しく忌々しげな燈吾に、ごめんなさい、とかすみは告げる。


「何を謝る?」


 荒らしたのはお前かと、きょとんと問う燈吾にそうではなくと首を振る。


「……安是者に庵を見つけられてしまったから。落ちていた赤黒毛で、私だとばれた」


 語尾は小さくなった。私のしくじり。佐合とのやりとりの記憶は身を強張らせる。

 そうかと燈吾は頷き、辛い思いをさせたな、と、そんなことを言う。


「酷い目にあわされたのではないか」


 酷い目――そう、非道な仕打ちを受けた。だからちゃらにした。自らの手で。


「ここに来る前も、兄妹喧嘩に巻き込み迷惑をかけた。すまない。記憶がまだらだが、助けてくれたのはお前だな、礼を言う」


 ありがとう、と。


 向き合い、目を見て、捧げるように言われて、心がうねる。

 すまない、ありがとう――途方もない絶望と苦難と悔悟。ただの一言、二言で済まされるものではない。

 報われたなど、救われたなど、浮かばれたなど絶対に思わない。尊い夫ではあるが、認められない。怒りすら沸き立つ。


 なれど、なれど、なれど――


 顔を触れてくる指は火傷のため皮膚が波打っている。妹の焔に焼かれた肌。

 小色は自分にとって良き下女だった。なれど、死なせた、あるいは殺したことに後悔はない。恋のかたきが消えて安堵すらしている。何度だって繰り返す。だのに。

 心身共に傷ついたであろう夫に礼を言われ、受け取る術を持たず、溢れ出てしまいそうな感情に俯いた。

 遠く、地鳴りが響く。また山が崩れたか、地が割れたか。厄災の中、しばしの無言の時を破ったのは燈吾の一言だった。


「……飯にしようぞ」


 燈吾は先の言葉通り、様々な品を草庵から持ち出していた。かすみが寝かされていた幹の上にも薄布が敷かれており、着物も黒水で汚れていたのを絣模様に着替えさせられていた。帯代わりの紐も結んである。

 それら着替えや布はともかく、一体どこに隠してあったのか、燈吾は次々に鍋や椀を並べてみせた。

 訊けば少しずつ持ち込んでいたが、なかなか使う暇がなかったという。お前はいつも明け方前には帰ってしまうから披露するがなかった、ようやく日の目を見たぞ、と。言いながらもそこらの石を積んで即席の竈を作り、煮炊きを始めた。

 出来上がった味噌味の雑炊には干魚のほぐしたものが入っており、辺りで採った茸と山菜も一緒に煮込まれ、骨の髄まで染みる熱さと滋味だった。吃驚仰天ぞ、と大言を吐くだけはある。口惜しくも。

 幾度もよそわれ、鍋が底を覗かせ、腹はくちくなる。

 食べ終えると燈吾は鍋と椀を洗いに沢へ行くと立ち上がった。いていこうとすれば、足がまだ痛むだろう、休んでおれと言われる。よほど心細そうな表情を浮かべていたのか、燈吾は苦笑する。いつかとあべこべの構図だった。

 すぐ近くの沢ぞ、不安ならば鬼火を翔ばしておいてやろう、と青白の玉を浮かべて燈吾は沢へと向かった。


 空は濁り太陽は見えねど、周囲は明るく、まだ日中らしい。昼間の蛍火は夜のそれよりずっと控えめな輝きを放っていた。

 することもなく、木の幹に背を預ける。枝にはいたるとこに霧藻が下がり、天然の御簾めいて、灰白の空と空気と相まり、非現実的な景観をつくっていた。

 なんとはなしに自身を見下ろせば、着替えの前に燈吾が拭ってくれたのか、身体には泥や黒水の汚れは残っていない。長い髪も同様に濡れていなかった。これはおかしなことなのだろうが、重い頭はそれ以上働こうとしない。

 黒沼は、今は無言のまま横たわっている。二輔の言うとおり、〈白木の屋形〉の池は黒沼に繋がっていた。阿古はそれを見越していたのか……

 奇妙なことはまだあった。なぜだか、短筒が手元に戻ってきていたのだ。気付けばカツラの木の根に置かれていた。記憶を辿れば、燈吾を引き留めるのに発砲し、なれど止められず、癇癪を起こして投げ出したはず……


 ふと視線を感じて顔を挙げれば、真っ赤な松明じみた光が黒沼の対岸に灯っていた。

 全て、彼女の手筈なのか。反射的に立ち上がり、木の根を越え、足を引き摺りながら黒沼の縁へ乗り出す。

 口を開くが、なんと呼べば良いのか迷った。


 〝たすけて、かあさんっ――〟


 歯噛みをする。方法がなかったとはいえ、求めてしまった。それも燈吾ではなく自らを救うため。そして実際、助けられた。阿古はきっと狂っていない。ならば、代償は……


「私に、なにをさせたいの」


 返事はない。


「あんなものを視せて、同情を引こうというの」


 黒沼のめくるめく万華鏡じみた幻視。男女の嫉妬、娘らの聖なる暴虐。牢での邂逅。


「思わせぶりはやめて、たくらみがあるのはわかっている!」


 糾弾は精一杯の虚勢だった。苛立ちは恐怖ゆえ。恐怖は後悔を膨らませる。



「どうした、かすみ?」


 戻ってきた燈吾に振り返り、もう一度対岸を見やれば、赤光は既に消えていた。

 光を鎮めただけなのか、実際に消えたのか、それとも幻視の続きか……ありもしないものを見る。常人と違ったものを視るというのなら、それは、狂い始まりなのか。

 顔色が悪い、具合が悪いか――心配されたのをよいことに胴に腕を回して抱きついた。ほかの誰にもありえない匂いに陶酔する。もし、自分が狂ったとして、嗅ぎ分けられるだろうか。

 カツラの木の、文字通りの根城に戻ると、燈吾は辺りの様子について話してくれた。


「人だけでなく、獣の気配もない。寒田へと戻る山路は崩れ、宮市へ下りる道は地割れが起きている。安是への道は倒木で塞がれていた。至る所で塵芥が立ち上がり、しかと確かめられたわけではないがな」


 淡々と語られる情景は、現実味が乏しい。


「里では、家屋の倒壊や火事が起き、多くの人死が出たろう。正気を喪った者もおるだろう」


 燈吾の口調は不安を煽るわけでもなく、ただ思ったことを口にしたというふうであった。そして呟く。


「ここは、静かだな」

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