8-8聖
残るよすがは、燈吾の故郷、寒田のみ。
〝融通〟の横領調べから鑑みるに、芳野嫗の密偵が放たれていると可能性もあるが他にあてはない。
芳野嫗宅から、寒田へ行くには塀さえ飛び越えられるならば、〈白木の屋形〉を突っ切り、黒山を抜けるのが一番速い。つまり、火付けた場所に戻るわけであり、気鬱にならざるを得なかった。
「どうした、難しい顔をして。腹でも減ったか?」
隣を往く夫はいたって軽く言う。先程、嫗を脅したその口で。眉間に皺が寄るのを自覚したが、すぐさま
伊達に娘宿を抜け出て黒沼の逢瀬へと通っていたわけでは無い。人目につかぬ道筋は心得ており、ここまでは里人と出くわしていなかった。
あるいは里人らは災厄に息を潜めているのかもしれない。かすのみ相手ならば皆で押し寄せ暴動も辞さなかった彼らだが、阿古には尻尾を丸めてやり過ごす方策をとったわけだ。賢明な判断と言えるだろう。
「母御は我らを追ってこられるだろうか。祝言には立ち会うてほしいのだがな」
そもそも、離れるべきではなかったのかもしれない。寒田に向かうが、阿古は妹姫、〈寒田の兄〉への有効な手立てとなったかもしれない──なれど。
「何を怒っておる」
「怒ってなど、」
軽口に反射的に否を返し、却って事実に気付かされる。
「言いたきことがあるのではないか」
夜風にふわりと乗せるような語調だった。それがいたわりとわからぬほど愚かではない。
満月はとっくに中天を過ぎ、傾きつつある。薄くたなびく雲を灰紫に透かし、淡黄色を滲ませる。夜明けはそう遠くないだろう。
「……なぜ、母だと」
なぜ、阿古が、狂女が母とわかったのか。できるならば隠しておきたかった、他の誰に知られていても燈吾、我が背の君だけには。
詰るつもりはない。燈吾は里でのかすみの扱いに憤り、嫗の言いように刃を覗かせた。ここまでかすみに肩入れする奇特な者は三千世界のどこを探してもおらず、むしろ感謝は沼底でも足りるまい。
ただ、こと阿古については、いかな背の君であろうが、いや背の君だからこそ、知られたくなかった。嫗宅では狸寝入りだったのか。それともやはり似ているからこそ。
燈吾はこともなげに返答する。
「お前の様子と話の流れから、なんとなくだ」
なんとなく、あまりに雑な言に絶句する。
「あと、あの老女が大仰に言うので、鼻を明かしてやりたく、状況から推測して先んじて言ってやったまで」
運よく当たった、あれで外れたらかなり間抜けであったろうな、という夫にやはり言葉が出ない。
鼻を明かす、ただその小さな企みで、己の秘事を暴かれた。笑えば良いのか、泣けば良いのか。
流石にこちらの異変に気付いたか、ただなんとなくなのか、改まった口調で言ってくる。
「前から、水を向けてもお前が肉親について語ろうとせぬのは気付いておった。理由があるのだろう、無理には訊くまいと決めていたが」
――もっとも、俺としてはいつかお前の口から聞かせてほしかったがな。
ぽつんと染みのような一言に波紋が広がり、足が止められる。
燈吾は怒るわけではなく、ただ淡く微笑んでいた。月明かりに似た、いと優しき清浄な面に、絶望的な思いに囚われる。
……話せるはずがない。
「少々風変わりな母御だが、俺は気にせん」
ぼんやりと谺する声。木の葉が風に散らされ、燈吾の前を過ぎる。背の君。物の怪の夫。寒田の男。風は彼の姿を霞ませ、同時に目に見えぬ線を引かれた気がした。
そう、ずっと前から、怯えていた。この断絶に。
己の出生、里での暮らし、狂った母。黒沼の逢瀬では日々の辛苦など忘れて、ただの可愛い里娘でありたいと願っていた。同時に直視したくなかったのだ。その隔絶に。
燈吾は人格者だと思う。妻の贔屓目を差し引いても。それだけに恐ろしかった。会うたびに己との隔たりを知り、なれど肌を合わせるたびに離れられなくなる。
夫は狂った姑にすら礼節を尽くす。だからこそ、知られてはならない。かつて自分は母を殺した。本音を言えば、阿古だけでなく、芳野嫗も安是の里も、一切合切、燈吾以外の全てを燃やし尽くしたい。その中には、夫の身内である娘もいるのだ。
――かすみ燃ゆ 焔の娘 我が妻よ 夢も現も君とあらん
この歌の通り、最期まで夫と共にあることができるだろうか。燈吾が安是人を斬ったのは〈妹の力〉の支配ゆえ。呪いから解放されたなら残るのはただの清廉な男。里を、遥野郷を離れたとしても根本は変わるまい。夫も自分も。
〝〈妹の力〉を祓い、寒田男を救えたとして〟
〝寒田男が手に入らなかったら、そなた、どうする?〟
嵐の晩の芳野嫗の言葉は、果たして予言だったのか。
どうするなんて決まっている──燈吾を騙してでも、添い遂げるまで。
「行きましょう」
足を止めていたのはごくわずかだが、その遅れを取り戻すように速めた。あるいは、罪悪感を振り切りたかったのか。膝のぬくもりを、涙を押し出させた指先を、覆い被さった時に広がる背の原の景色を、今になって手放しはできない。ならば生涯の嘘を覚悟するしかなかった。その先が、棘の道、泥の河、血の海になろうと。
俺は母御について気にならん、なれど、と彼は続ける。
「望むなら、斬り伏してやろう」
問い返す間もなく、山刀の刃をちらり覗かせて。
「里であろうが、老女であろうが、母であろうが、お前の幸いを邪魔立てする一切を、俺が」
月光を淡く絞ったような夜気の中、だから、必ず申せ、といっそ無邪気に笑う。
……狂った
そんな言葉が胸中に浮かぶ。この男は高潔にして、錯乱しているのではないか。でなければ、こんな支離滅裂を言い出すまい。
夫に感じた薄ら寒さは、憎悪を燃やし続ける己にとって、むしろ安堵すべきものだったはず。けれど初めて抱いた怖れに、肌は粟立った。
「いっそ安是者すべてを斬って棄て燃やしてしまうか。お前にとって里は居心地の良いものではなかったのだろう?」
その通りだ。ずっと安是など滅んでしまと呪って生きてきた。その希いは正しい。なれど。
「……安是と寒田、協力するのではなかったの」
月影に彩られた夫の端正な顔を見つめる。どれだけ見ても飽きないそれを眺めながら。
「黒ヒ油や黒山の木材を活用して、販路を広げる。共に豊かになったら、私たちは誰はばかることなく夫婦になれると」
水飴よりも甘ったるい閨の夢物語。実現できると思っていたわけではないが。
「安是は寒田を見下す」
「それを均すのではないの」
「お前は、安是の肩を持つのか?」
許しがたい侮辱だった。自分がどれほど里を怨んでいるか、その煮え立つ憎悪を、夫その人から隠すのにどれほどの労を払っているか。ある意味、その労は報われているということか。そして次の言葉に震えすらする。
「カワジ、カワジと老女に呼ばれておった男がいたが、お前とも随分親しげにしていたな」
怒りも度が過ぎると、人は声を喪うらしい。絶句していると、一転して燈吾は拗ねたような声を上げる。
「……やはり、安是男がいいのか」
「なにを、」
「黒打掛はどこにある、あれが無ければお前を娶れぬ、捨ててしまったのか」
遅まきながら夫の異変に気付く。呼吸は浅く、荒い。多量の汗。また頭痛がするのか、頭に手をやり、眉間に皺を寄せている。
「祝言が嫌か、寒田男は気に入らぬか?」
「そんなわけない、私は燈吾の妻よ、黒打掛はこの先の茅屋で預かってもらっているの、汚してはいけないから」
「嘘を申すな、寒田者をあしらうか」
「違う、燈吾」
「疎み蔑み嘲り、
突如、激昂した夫に痛いほど肩を揺さぶられ、為す術がなかった。何をどうすれば良いのか、見当もつかない。釈明も、謝罪も、慰めも、喉は塞がれ、舌は膠で貼り付き、口は凍って発せられない。ましてや抗い逃げるなど。
嵐は長くは続かなかった。実際には、十をいくつか繰り返したぐらいだろう。唐突に、糸が切れた傀儡に似て、燈吾の両の手から力が抜け落ち、動かない。
燈吾、呼べば夫はかすみの肩に顔を伏せさせたまま呟いた。露わになったうなじから青白の蛍火がさまよい浮かぶ。
「……俺は、おかしいのか?」
否定か肯定か。
項垂れた夫を慰め、労わり、癒したいと思った。ただ安らかにあれ、と願う気持ちは嘘ではない。なれど。
そうよ、と。
感情とは裏腹に、ひどく冷徹な呟きが零れる。
「燈吾は今、〈妹の力〉に支配されている。寒田の兄妹については前に話したでしょう?」
……寒田の兄妹? 顔を上げずに繰り返された言葉に、頷く。燈吾からは見えないとはわかっていたが、肩の揺れは伝わったろう。
無力な寒田が嘆願して生まれた妹姫、〈妹の力〉により人あらざる力を持ち暴虐を働くようになった寒田の兄妹。
安是は寒田へ黒ヒ油や現金を融通してきたが、安是と寒田の一部の結託により援助は滞り、無辜の寒田人の貧しさ、引いては安是へのうらみつらみは増す。おそらくはその過程で妹姫が生まれ、〈寒田の兄〉が出現した。
こちらの説明を聞いているのかいないのか、燈吾は身じろぎしない。なれど、続けた。夫を苦しめると承知で。
「……巨人の膂力、韋駄天の神速、天狗の跳力。今の燈吾には人あらざる力がある」
安是男の両の
ねえ、と呼びかける。
「あんたは、どうして、あんなことできたの」
ごく普通の里男にできる芸当ではない。ありえざる凶々しさ、危うさ、美しさ。
燈吾は答えず、黙り込んでいる。怒ったのかもしれない。
「どこでそんな力を手に入れたの?」
どう言い逃れもできぬ衆人環視の中、目にも鮮やかな血の雨と青白の蛍火を撒き、安是男らを恐怖と混乱に陥れた。
詰りたいわけではない。
安是の滅びは自らの望むところ、むしろ和合を説く燈吾と己の隔たりにこそ危惧を抱いていた。
なれど、変わってしまった夫を、夫自身に理解してもらわねば。自分の手に余るから、尊い背の君に重い荷を半分持担わせようなんて傲慢だと思う。でも。
しばしの沈黙の後、わからない、と呟き。燈吾はゆるゆると面を上げた。
「……俺を、棄てるか?」
肩に感じた熱い湿り気を裏付けるように、燈吾の顔は涙で濡れていた。刹那。
胎の底から指先、足先、赤黒毛の一筋一筋に至るまで、熱い奔流が走った。湧き上がり、膨れ上がり、溢れ出て、身体の中に押し止めきれない。
光は、憐れみであり、愛おしさであり、欲情であり、燈吾へ向かう感情の一切合切を混ぜ込んで複雑な色をあらわした。濃いも薄いも、明るいも暗いも、赤、青、緑、白、黄色、深くひそむ百色が暗紫紅に収斂する。
自分に棄てられると怯え、泣き、縋る極上の男を、どうして手放せるだろう――濡れ
「棄てるはずがない。傍にいる。必ず治す。呪いを祓う」
――たとい、治らなかったとしても。
何を証としようか。暗紫紅の焔は、何千、何万の言葉に勝って、雄弁だった。燈吾の顔を袖で拭いながら告げる。
「……寒田へ行きましょう。妹姫が誰か特定できたなら、交渉次第で燈吾を解放してくれるかもしれない」
楽観的観測ではある。だがまったくの無根拠ではない。燈吾は安是では何人もの里人を屠った咎人ではあるが、寒田では未だ単なる里男。寒田長を騙った客人――直松一行の反応から、そのことが窺えた。
また、安是からの融通を再開させるとはったりをかますこともできよう。それには、芳野嫗が寒田に忍び込ませているだろう内偵を丸め込む、もしくはその口か息かを塞ぐ必要があろうが。
今現在、安是は阿古の出現により混迷のただ中、すぐに動けば出し抜けるかもしれない。
未だ不安げな燈吾に微笑みかける。
「もし、寒田が無理でも手段は他にある。新都へ行き、当代一の医者に診てもらうの。西つ国で学んだ心医を捜すわ」
受け売りだったが、罪悪感は一欠片もない。使えるものは全て使う。燈吾と己のためだけに。
燈吾は虚を突かれた顔をして、頼もしいな、と小さく笑んだ。
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