5-3逃走
木々の影に、青い燐光が垣間見える。追いつくのはさほど難しくはなかった。蛍火の誘導があり、燈吾の足取りもおぼつかないものだったから。
「燈吾、」
少し間を空けたまま、ひそめた声音で背に呼び掛ければ、夫はゆるり振り返る。燈吾の着衣も情事後のだらしないもので、黒打掛にいたっては肩に引っかけている程度だった。今にもずり落ちてしまいそうだ。
「どこへ行くの? 私を置いて」
置いていく? 燈吾は首を傾げる。
「そんなはずない。歌を詠んでやったろう?」
燈吾は完爾と笑った。あまりにこの場にそぐわず、明るく無邪気に。だからそれ以上追求できなくなる。
「頭痛は?」
「ああ、ひどい、ひどいな。ひどすぎる。割れるようだ」
「今、薬を持ってくるから」
「薬は要らん。安是の薬は毒だ、寒田を殺す。何度も何度も何度も何度も、繰り返し」
笑顔の夫に何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
安是と寒田の確執は知っている。寒田が下位に置かれ、軽んじられてきたことも、その鬱屈も、芳野嫗の話から想像していた。だが、今まで燈吾はおくびにも出さず、むしろ共栄を望んでいたはず。
隔たりに足がすくんだ。それでも、普段は涼やかだが笑えば溶けた飴と化す燈吾の眼差しに光は燃え立つ。こんな時でも。
ふいに複数の足音が近付いてくるのに気付いた。隠れて、告げるがあちらの方が早い。
「寒田はこちらだ、オクダリには当てるな、構え!」
川慈の声は右前方、屋形側から聞こえた。ならば、この位置から燈吾の盾にはなれない。遅いとはわかっていたが、脚は燈吾を目指して疾駆する。
視界が真っ暗に遮られたと同時、多重の銃声が響いた。
かすみは突如降ってきた布――黒打掛をはねのけた。恐ろしかった、次に眼に映ったものを認められるか。けれど確かめずにはいられない。
地面に伏した夫の姿は無かった。その真逆。
燈吾は空を舞っていた。青白の蛍火をいくつも引き連れて。少なくとも、かすみにはそう見えた。視界が遮られた数瞬を想像で埋めるとしたら、飛ぶほどに跳躍した燈吾が猟銃を構えていた安是男らの真横に降り立ったのだ。
なぜ、そんなところに着地したのか、答えはすぐに知れた。
下方から掬い上げるようにして、燈吾は山刀を振るった。いとも無造作に。その銀の軌跡の内にあった一人の安是男の腕が猟銃ごと地面に落ちる。
流血にうずくまる安是男の肩を踏み台にして、燈吾は傍らの木へと跳び移る。枝から枝へと渡り、塀よりも高い紅葉の巨樹の天辺に辿り着いたのはほんの一息後のことだった。
――巨人の膂力、韋駄天の神速、天狗の跳力。
かすみは天上の男を呆然と見上げた。銃声も怒号も呻きも、すぐそばで鳴り響いているはずなのに、ひどく耳遠い。
里男の装い、無骨な山刀、不躾な眼差し――だというのに。
金赤に色染めし紅葉を散らし、青白の蛍火を引き連れ、月と流れる雲を背負い、燈吾の姿は禍々しく、雄々しく、美しかった。この世の者とは思われぬほど。
燈吾自身は、混乱し、統率の乱れた安是男らをさもつまらなそうに眺めていた。安是男の誰もが燈吾を狙い呪い猛っているというのに。
下界を見下ろす視線と、天上を見上げる視線が絡む。
彼の口元が動く。かすみはそれを読み取った。
――かすみ燃ゆ 焔の娘 我が妻よ 夢も
「……必ず、迎えにくる」
燈吾はふらり虚空へと仰向けに倒れた。真っ逆さまに落ちる、そう思った刹那、くるり一回転し、隣の松の枝に着地し、しなった枝の反動で大きく跳ね上がった。そして西の空へとかかる半月の陰へと身を投じ、吸い込まれゆく。
実際は塀の向こう側へと降り立ったのだろう。だが、そう見えた。そしてそのように見え、見入り、魅入られたのはかすみだけでなく、その場にいた安是男らも同様だったろう。
なぜなら、その一瞬、誰もが動けなかったから。呪縛が解け、追って走り出す者、怪我人を介抱する者、川慈に指示を仰ぐ者、各々が動き出す。
けれどかすみは身動きできず、ただ、夫が消えた虚空を見上げていた。
「妹の力、寒田の兄。お前も理解できたろう」
しわがれた声音に
「あれは〈妹の力〉の支配下におる。男が欲しくば、呪いをとくより術は無い」
とけるものなら。言外に言われ、かすみは芳野嫗を睨みつける。
〝望むならば、寒田の男もくれてやろう〟――その言葉の真意を悟る。
安是など
かすみは奥歯を噛み締め、拳を握り、滲む目元を堪えた。この落ち着きようから、芳野嫗の寒田行きも仕組まれていたに違いない。
用心していた。出し抜いたつもりだった。だが、結局は〝かすのみ〟の身の程をしらしめられただけだった。
夜風は冷たく、情交の熱を
両の腕を斬られた安是男は、半時も経たずして絶命した。失血か、腕を失った衝動にか、その両方か。
報せてきたのは、小色か、川慈か。寝所に戻って横たわり、浅い眠りに浸っていたかすみには判然としなかった。
浅い眠りは悪夢だ。
舞い散る紅葉は血の雨に、燈吾の蛍火は死霊に、月と流れる雲は夫を覆い隠す。
月の陰へと消えた男は本当に自分の夫なのか。
安是男の殺害を咎め立てする気は毛の一筋ほどもない。かすみ自身、同じ業を負っているどころか、阿古――母親までも手に掛けたのだから。しかし、安是と寒田の融和を説いていた夫の変わり身が信じ難かった。
夢も現も 君とあらん――ああ、もちろん、自分とて同じ想いだ。なれど……
喉の渇きで目が覚めた。口の中が貼り付いている。耐え切れず、起き上がった。
廊下に出るが、辺りは暗く、身体の疲労具合からまだ夜明け前だと推し量る。燈吾との逢瀬ならば、そろそろ別れの刻限だ。夜と朝の狭間の清澄な空気は、しかし昨夜の狂乱の残り香で澱んでいた。
人の気配はない。あれから
冷ややかな廊下を素足で進み、水場へ向かう。
ふいに、かすみは足を止めた。昨夜嗅いだ澱んだ臭気が濃い。いや、徐々に濃くなっているのか。
逃げ出したい本能を抑え込み、戸を引く。鼓動は速いが、冷静ではあった。予感を確かめるだけの作業ゆえ。
その小さな暗がりには、誘いをすっぽかした若衆頭――真仁が、膝を抱えて座っていた。板間に血溜まりをつくり、事切れて。
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