5-2情交

 深く、重く、埋めるような交わりだった。擦り合わされる壁と壁を粘液が融かし、境界を曖昧にして、気を狂わせる。

 下になったかすみは燈吾の背に腕を回していた。その時眺める、彼の背が好きだった。なだらかでひろく、重みを感じる。〝背の君〟とはまさに言い得て妙だ。

 暗紫紅の焔がその平原に燃え広がる。染めた薄絹のような光は幾重にも重なり、巻き上がり、地平を覆い尽くす。あるいは、天から一斉に花びらが降り注ぐ様にも似て。

 この一時、男を征服した心地に陥るのだった。実際に組み敷かれているのは己であり、意味ある言葉の一つも返せないというのに。悲鳴のような声が響いているのが他人事めいて聞こえた。


 ――かすみ燃ゆ ほむらの娘 我が妻よ


 だから、燈吾が熱い精を吐き出した後、耳元で詠まれた歌にすぐさま反応できなかった。暗紫紅の光を波立たせたまま、打ち上げられた魚よろしく横たわっていたから。

 ……かすみ燃ゆ。

 その響きは悪くなかった。胸のうちで繰り返す。我が妻よ、という言葉は更なり。でも、聞き取れたのは上の句だけで、続きを聞き逃してしまった。

 ねえ、なんと詠んだの燈吾?

 まるで古の貴人が交わしたという、後朝きぬぎぬの歌だ。滑稽とまでも言わないが、おかしみを感じた。元々は草庵を根城にしていた二人、貴人とは遠くかけ離れており、ごく普通の所帯すら持てていないというのに。

 ごく普通の。安是から、寒田から、遥野郷から遠く離れて暮らせたなら。夢で見た黄金原のような土地で――


 冷水を浴びせられた心地だった。


 その瞬間、脳裏に描かれた金色の景色は弾け、暗紫紅に呑まれ、夢は霧散する。切迫感に突き動かされて身を起こした。


「燈吾、行かなけりゃ」


 小色には、夜が明けるまで誰も立ち入らせるなと厳命してある。もちろん、小色自身も。若衆頭との愉しみ、彼女も顔を赤らめながら承知しましたと頷いた。いつも鬱陶しくつきまとう川慈とて男女の礼節ぐらいは弁えているはず。

 あとは夜陰に紛れて逃げてしまえば良い。かすみも燈吾も黒沼までの往路を繰り返す健脚の持ち主だ。黒山を下りて遥野郷随一の繁華、宮市みやいちまで逃げ込めば、行方を追えまい。路銀と今後の生活の足しとする装飾品や着物もまとめてある。

 里の貧しい暮らしの中どうやってこれらの品々を揃えたのか、不可解ではあったが、あるものは利用させてもらう。

 山姫も、オクダリも、〈妹の力〉も知ったことか。〝かすのみ〟と蔑んできたくせに、図々しい。

 ほんの少し罪悪を覚えるとすれば、小色だった。あの娘は安是とは無縁で、けれど――だからこそか――よく尽くしてくれた。オクダリサマに逃げられたとなれば、怒りの矛先を都合の良い余所者よそものにぶつけるだろう。寄合所の地下牢の匂いや湿り気が甦る。

 だが、夫と下女、天秤にかけるまでもなかった。燈吾は優先すべき、いの一番なのだから。

 まとめてあった荷を長持から引き出し、身支度にかかる。

 なれど、燈吾はうつ伏せに寝そべったまま。情交をねだったのは自分であるから、あまり責められたものではないけれど。だが、様子がおかしかった。いつもなら恥ずかしがるかすみを言葉で責め立てながら共に始末をしてくれるというのに。


「具合が悪いの?」


 額のあたりに手をやり、耐えるように歯を噛み締める夫に気付き、慌てて膝をついて覗き込んだ。面には脂汗がにじみ、眉間には深い渓谷が刻まれている。


「……いつもの頭痛だ」

「前からあったの?」

「ここ最近とみに酷くなった」


 少なからずの驚きだった。黒沼の草庵で、かすみがその様子に気付いたことはない。逢瀬は嬉しいばかりだったが、燈吾に無理を強いていたのか。夫は苦悶の表情を浮かべている。

 しかし、今、悔いたところで、治るでもなし。


「小色に言って薬をもらってくる」


 こいろ、どこかたどたどしく、不思議そうに繰り返す。燈吾が、自分が知る誰かの名を呼ぶのを聞くのは初めてで、奇妙な心地がした。

 下女よ、良くしてくれている――言うが早いが、立ち上がり寝間の戸を開けた。まだ宴の後片付けをしているか、残り湯を浴びているか。小色の居所を想像し、最も効率良く回れる経路を考え、しかし寸暇を置かずに無駄となる。なぜなら。


「オクダリサマ!」


 開けた戸のすぐ脇で小色は座り込んでいた。夜半過ぎ、廊下は冷えるだろうに、親の帰りを待つ子のように。寝所には近付くなと申し付けてあったというに、どうして。


「ご無事でしたか、あの、」


 立ち上がった小色が、言いし、口を閉じ、気まずそうに目を伏せた。それもそのはず、かすみは寝衣を纏ったのみ、まだ暗紫紅の光も冷めやらぬ、まさしく情事後という艶姿だった。


「小色、頼みが」


 かすみもまた言い止す。小色のまなこが真円に見開かれたから。その黒い鏡に似た眼に、青白の気泡が無数に浮かぶ。

 振り返れば、うずくまった燈吾から蛍火が発せられ、寝所中に舞っていた。

 常ならば燈吾は涼しげな顔で蛍火を操っていた。山路を帰るかすみの灯明に、案内に、目印にと。このまったくの無秩序の光の乱舞は、どうしたことか。

 無我夢中でまとめてあった荷から黒打掛取り出し、燈吾へ掛ける。安是女の光同様、黒打掛は寒田男の蛍火を覆い隠してくれた。

 そして、ぴしゃり戸を閉め、廊下に出て早口で告げる。


「頭痛に利く薬を持ってきて。ウドの根を乾燥させたものがあったはず」


 小色はでもあのと言い澱む。なに、とぶっきらぼうに尋ねれば、


「ご無事、なのですか?」

「……無事よ。だから早く」


 低い声音に気圧されたのか、何かを察したのか、小色は頷いて暗い廊下を走って行った。その背が曲がった先へ消えるのを焦れる思いで待つ。

 体の芯に力を込めて締め堪えていたが、足を伝い落ちるものがある。床を汚したそれを拭き取る間もなく、寝所へときびすを返した。


「燈吾?」


 黒打掛を被った背の君の姿はない。ただ青白の残光がわずかに漂っていた。そそけだって、寝所の隣室である化粧の間へと飛び込む。

 燈吾はいないが、外廊下へと繋がる戸が開け放たれている。小色が閉め忘れるということは考えにくい。

 かすみは庭へと飛び出した。

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