3-2

「おや、便利屋のこいぬくん」


閉じたシャッターの前からそんな声がかけられた。


騒動を起こしたゲームセンターから数百メートル離れた歩道のうえ。前を歩く申谷とは一言も口を聞いていない。犬養は唇を尖らせながらついて歩いていた。


かつては小さな商店が軒を連ねていた通りだ。いまはどこもかしこもシャッターが下りて、賑わいとは程遠い。人気もなく、大通りの喧騒も遠くにある。


そこにはローチェアに腰かけた若い男の姿があった。

白いシャツと黒いジャケットを着て、中折れ帽を被っている。膝には着物の羽織をかけていて、まるで家のなかにいるようなリラックスした様子で通りを眺めていた。


男の前には低いテーブルが広げられている。卓上にはスケッチブックや文房具、そしてドリップ式のコーヒーメーカーが何気なく置いてあった。カップからは白い湯気とともにコーヒーの深い香りが立ち上っていた。


「ひどい顔をしているね。拗ねてるのかな」


左目は髪で隠れている。男の右目が犬養をみあげて、しずかに細められる。


「べつに拗ねてねぇよ。そんなことよりここにいたのか、探してたんだぜ」


男のかたわらに置かれたイーゼルには何も書かれていないキャンパスが掲げられていた。犬養はその前で立ち止まる。


「ぼくは神出鬼没だからね。一秒後にはどこかへ移動している可能性だってある」


「せめて話を聞くまでここにいてくれ」


変わらぬ歩調で歩道を進んで行く申谷を男は見やった。


「便利屋の人かな」


「まぁ、そんなとこだ」


「そんな風には見えないね」


穏やかな微笑みをうかべたまま、彼は膝にかけた羽織のうえで指を組み合わせる。


「この街の人ではないね。いろんな街に行ったことがあるんだろうね。そしてやることが終わったら、この街からも出て行ってしまうんだろうね」


まるで申谷の背中から滲みだしている激情を汲み取ったように、男はそっと目を細めた。さきほどの少年たちとはちがい、恐れも怯えもない。申谷のなかで燻っている感情のひとつひとつを丁寧に数えるような静かな物言いだった。


「願ってもねぇぜ。一刻も早くそうなるようにしたいんだ」


犬養の拗ねたような物言いに「ふふ」と笑いを漏らすと男は、テーブルに置いていたスケッチブックを取り上げた。パラパラとページをめくっていく。


「ここのところ、よそから来た人をよく見かけるなぁ」


「あぁ、その連中のことが知りたいんだ」


白紙のスケッチブックに鉛筆の先端が滑る音がする。


「あれはよくないことを考えている目だった。他人を傷つけることに躊躇しない、心の委縮してしまった人の顔をしていた。この街にもそういう人はいるけれど、なにかちがう」


「どこで見かけた?」


「駅前、裏通り、パチンコ屋やゲームセンターから出て来たこともあったかな。ぼくはあちこち移動しているけれど、よく目につく。通行人に声をかけているのも見たかな。どんなことを話しているかまでは、距離があったからわからなかったけど」


視線を手元に落としたまま男は淡々と語っている。


「それどうなってた?」


「相手にされていなかったね、素通りされていた」


犬養は腕を組んで、白紙のキャンパスを眺めながら「ふうむ」と唸った。


「いろんなところでそうやってれば、何人かは引っかかるだろうな」


「そうかもね。暇を持て余して刺激を求めている子なんて腐るほどいるだろうからね」


男は膝の上に広げたスケッチブックに鉛筆を滑らせている。なにを書いているのかはわからない。男は鼻歌でも奏でそうなほどおだやかな笑みを浮かべて、白い紙へと眼差しを注ぎかけている。


「それって五十代ぐらいの男じゃなかったか?」


「いいや。ぼくが見た人たちはそこまでの年じゃなかったよ。比較的若かったと思うけれど」


「そっか」


「ところで犬養」


鉛筆を動かす手を止めて男は言った。


「きみと一緒にいた長身の男性、ずいぶん遠くまで行ってしまったけれど大丈夫かな?」


ペンの頭を道の先を指し示す。

直線に伸びていく歩道の先で、見慣れたトレンチコートの背中が小さく見える。

犬養は露骨に表情を歪めて、組んでいた腕を解いた。苦い顔をして道の先を睨みつける。


「少しも大丈夫じゃねぇな」


その様子を見ていた男はスケッチブックに視線を戻すと、


「手を焼いているようだね」


そう言って静かに笑っている。

犬養はこめかみ当たりを掻きながら、大きく息をつく。


「まあな。けど仕方ねぇ。俺の仕事だからな」


「大役だね。しかし手に余るようなら、相談したほうが良いんじゃないかな」


「いや、俺はやる」


はっきりと言い切ると、犬養は背筋を伸ばした。

道の先に遠のいて行く背中を見つめながら、


「所長にも前所長にも散々世話になってきた。ふたりの信頼に背くことはしたくない。それに、すでに片足突っ込んじまっているのに投げ出すなんて真似も出来ない。正直、いけすかない奴だとは思っているが、だからって俺の気持ちを曲げる理由にはならねぇからな」


男は「ふふ」と小さく笑った。


「手を焼くような悪ガキだったのに、立派なことを言うようになったね」


唇を尖らすと、犬養は男の言葉を鼻を鳴らして吹き飛ばした。

そしてまっすぐに道の先を見据えて呟いた。


「それにオレには、もうこれしかねぇしな」

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