第43話 幸せってなんだっけ

 リリパット号が再び動いたという事実に、ただただ喜びが湧き上がってくる。


(美里ちゃん、もういいよ。早く葉月の能力で戻ってきて)


 目の前の熊を見て逡巡する。


 このまま削り続ければ遠からず仕留めることができるだろう。


 だが、この熊を倒したところで深い意味は無い。


 魔物なんて、アーコロジーから離れれば無数にいるのだ。


 たった一匹の熊を倒したところで何も変わりはしない。


「葉月!リリパット号が動き出した。回収してくれ!」


「キャ、キャプテンムクダが……!」


 感極まったような葉月の声に、あいつはどれだけキャプテンムクダを気に入っているのかと、つい呆れてしまう。


「さっさとしろ!置いて行かれるぞ!」


「……任せろ!!!」


 葉月がパン!と自分の頬を打って切り替えると、こちらに駆け出してくる。


 熊は唸り声を上げているが、それだけだ。


 そこに脅威は感じない。


 こちらを近づかせまいと必死に虚勢を張る負け犬の声だ。


(えっ……!?)


「っとと……!?」


 突然、視界がぐわんと揺れる。


 同時に襲ってくる虚無感。


 ついさっきまで手に取るように分かっていた周囲の状況がぼんやりとしたものになる。


(……戻った?)


 困惑。だが、知美から流れてくるそんな感情がちっぽけに押し潰されてしまう。


 何かが無くなった。自分の中から消え失せた。


 良い知らせを聞いて舞い上がっていたところを最悪の気分に突き落とされる。


 胃が重くなって吐き気までしてくる始末だ。


(そっか。ふふっ。…私だけじゃないんだ。嬉しい)


 胃のむかむかと共に狂気的な熱が湧き上がってくる。


 その残滓に縋り付こうとするが、指の間から漏れ落ちて、左腕についた傷に沈み込むように消えてしまう。


 血がサッと顔から落ちていき、頭が真っ白になる。


 何の解決にもならない焦りだけが脳内を駆け巡って、パニックになる。


「あ……ああ……」


 喪失感のあまり情けない声が漏れる。


(!?なに、これ……。だめ。力、入らない……)


 認めたくなかった。


 だから自分から抜け落ちたものを頭で理解していても、それをはっきりと頭の中で言葉に起こしたくなかった。


 体から力が抜けていき、膝が崩れていく。


「ミーちゃん!ミーちゃん!しっかりして!!」


 いつの間にかすぐ傍にいた葉月が、左腕で私を抱きとめる。


 その熱に、柔らかさに縋り付いて、喪失感に引きずり込まれようとする自分の意識を必死に繋ぎとめる。


「…いなくなった」


「なに!いったいどうしたんだよ!」


「知美が……、知美が、いなくなった…」


 自分の中だけでは受け止めきれなくて、声に漏れてしまう。


「えっ……」


 私から漏れ出た言葉を拒もうとして、葉月が呆けた声を上げる。だが、すぐに目の色を変える。


「どういうこと!ともちんに何があったの!?」


 必死の形相で詰め寄ってくる葉月の様子を見て、自分の失言に気づく。


 違う。そうじゃないんだ。


「いや、大丈夫。大丈夫なんだ。知美は船に乗っている。無事だ」


 知美は無事だ。私の能力でこれまで通りにつながっているのを感じる。それがちっぽけなものに感じるが、確かに知美を感じる。


「じゃあ……て、何!この傷!?」


 葉月が私の腕の怪我に気づいたらしく、切羽詰まった表情をそのままに顔を寄せてくる。


「これは……絆だ」


 知美と私の間でできた絆。それに集中すると、薄っすらとした繋がりが熱を帯びる。


(この傷から美里ちゃんを感じる。この痛みは私のものか、美里ちゃんのものか。全然区別がつかない。すごく痛い。涙が滲む。頭の中を強制的に塗りつぶす暴力的な痛み。けど、ずっと感じていたい。そこに美里ちゃんがいるから)


 知美とのパスはこれまで通り。繋がりっぱなしだ。


(大丈夫。力が抜けるような感じがしてぼんやりしたけど、もう大丈夫。戻ってこれた。普段通り)


「はぁ!?何言ってんの!」


 葉月の声から苛立ちを感じる。早く手当てをしなければと思うのに、私からの返答は要領を得ない。それは苛々もするだろう。


(なんか、他人事みたいだね…。けど、それが凄く安心する。いつもの美里ちゃんだ)


 流れ込んでくる愛おしさと安堵に少し慰められるが、喪失感は消えない。


「悪いな。ちょっと……現実を見たくないんだ。だから、たぶん変なこと言ってる。悪いが、船まで頼めるか。……早く知美に会いたいんだ」


(…私も寂しい。さっきまで一緒だったのに……)


 知美の声がそこで途切れる。向こう側も無理をしていたようで有無を言わさず眠らされたらしい。


 その事実にまたもや意識が沈みかけたが、知美とのつながりは切れていないことを感じて、安心する。


 戦闘が終わって緊張が切れたせいか、自分の体調の悪さを一気に実感する。


 私のあの能力はとんでもなく魔力を消費するらしく、魔力は切れかけだ。


 意識を保てているのは、知美との絆が私を繋ぎとめてくれているからだ。


 ついでに血を流しすぎたらしい。


 指先が冷たくなっている。


 左手の感覚はほとんどない。


 さっさと治療しなければいけないと、ぼんやりと考えながら、制服を引きちぎって適当に巻いておく。


「…分かった」


 焦点が定まらなくなってきた私の目を見つめて、葉月が重々しく言葉を放つ。


「無理させるようで悪いけど、そのままあたしの首に手を回してしっかりしがみついて。右手に武器があるから、私だけの力でミーちゃんを支えられないんだ」


「前抱きじゃなくて、負ぶってくれてもいいんだぞ」


 芯は通っているが、弱々しい自分の声に驚く。


「だめ。背中側は私の能力の余波をダイレクトに受ける。しっかり掴まって」


「ふん」


 真っすぐな葉月の声を聞いて、鼻を鳴らす。


 弱っている自分を見せるのがなんだか気恥ずかしい。


 葉月の首に腕を回して、右手で自分の左手と葉月の襟筋をしっかりと握りこむ。


「っ!!」


 私の左腕が葉月の首筋に触れたとき、葉月がびくりとする。


 …悪いことをした。首筋にべったりと生ぬるい血を付けられれば気分が悪いだろう。


 ぼんやりとそんなことを考える。


「行くよ!」


 葉月が左腕を私の膝の下に通して抱きかかえると、恐怖を振り払うかのように大きく声を上げる。


 葉月がその能力を発動させて、赤い航空灯を灯す船に向かって飛び出す。


「っ」


 体が慣性で置いていかれそうになって、短く息を吐いて葉月にしがみつく。


 こちらが力を入れると、葉月がびくりと体を強張らせる。


 何を緊張してるんだ。こいつは。


 そんなことより、葉月が右腕で私の頭を支えようとしてくれているが、どうしようもなく窮屈だ。


「その邪魔な乳は何とかならんのか」


 葉月の豊満な胸が私の胸を押しつぶして息苦しい。


「!?」


 葉月がひゅっと息を呑む。


 その顔を見上げると今にも泣きだしそうな情けない顔をしている。


 だが、ギリッと歯を食いしばると、ぎこちなく笑う。


「みんなを幸せにする葉月ちゃんの柔らかおっぱいだよ!それを削るなんて、とんでもない!!」


 葉月が空っぽな明るい声であほなことを言う。


「そんな薄い幸せ捨てちまえ。醤油の方が私を幸せにしてくれる」


「じゃあ、私の胸に醤油をかければ解決だね!」


「ふん。なんだよ、それ」


 よくわからない葉月の答えを鼻で笑う。気の利いた返答が思い浮かばなくて、なんだか負けたような気分になる。


「もうちょっとだよ!!頑張って!!」


 目を開けているのも面倒になって、暗闇に身をゆだねると、何を勘違いしたのか葉月が切羽詰まったような声を掛けてくる。


 葉月の左手がギュッと私の足を握って、なんだかくすぐったい。


「なあ、葉月」


「うん!?」


 このままだと本当に意識が無くなってしまいそうで。でも、その前に伝えておきたくて、呼びかける。


「私の傷」


「大丈夫!大丈夫だから!」


 何かを認めたくないように葉月が必死で声を上げて振り払おうとする。


「死なないよ!ミーちゃんは……ミーちゃんは絶対、絶対にそんな傷で死んだりしない!!」


 何を勘違いしてるんだこいつは。


「当たり前だろ。そんなこと、口に出すまでもない」


「そっか。…そうだよね!ごめん、ごめん」


 葉月の声が鼻声になってきて、なんだか笑えてくる。


「この傷さ」


「うん。うんうん!」


 すごい勢いで頷く葉月に、口角がぴくぴくと痙攣する。


「跡が残るようにしてほしいんだ」


「えっ?」


 面食らうような葉月の声。


 なんとなく上昇の速度が落ちた気がする。実際のところは分からないが。


「そ、そんな。……大丈夫だって!絶対、絶対に綺麗になるから!そんな……そんな変なこと言わないでよ!!」


 どこが琴線に触れたのか分からないが、葉月の声が完全に涙声になる。


「頼んだぞ」


「いや……そんな……」


 あの時、私の能力で知美の一部は私の中にいた。


 知美は私だった。


 だから、あの時感じた幸せは、安心感は私のものだった。


 知美から流れてくるものとは違う、私の中で湧き上がったあたたかいもの。


 ずっとそれに浸っていたくなるような、けれどそれに溺れてしまうのはなんだか怖いような、よくわからない感情。


 あの時。


 熊との戦闘が終わった時、私の中で知美が消えた。


 包まれる様な安心感、ただただ湧き上がってくるじんわりとした気持ち。それも同時になくなった。


 怖かった。


 知美が私の中からいなくなってしまえば、さっきまで感じていた、自分の中で生まれた暖かい気持ち。それに身を委ねる心地良さ。それがもうなくなってしまって、そして、二度と感じることができなくなってしまうようで、怖かった。


 だから認めたくなかった。


 知美が私の中にいなくなったと。能力が切れてしまったと。


 怖くて、寂しくて。


 そんなときに、すごく知美に会いたくなった。


 けど、あの夜からずっと開きっぱなしの繋がりだけでは心細くて。


 だから、共有していた痛みをもっと感じたくて、残しておきたいと、そう思った。


「誰か……、誰か!早く!!ミーちゃんが、ミーちゃんが……!!ともちん!いないの!?

 ……隊長でも、教官でも、誰でもいいから早く!!早く手当てを!!!!」


 そんな物思いに沈んでいる間も私に向けられていた葉月の声が方向を変える。


 その内容が頭に入ってきて、船に乗り込むことができたのだと気づく。


「素晴らしい。待った甲斐があるというもの。あの人も、きっと喜んでくれる…!」


 喚く葉月の声の隙間から、なぜかはっきりと聞こえた、細くて蚊の鳴くような小さい声。


 その声の恍惚とした響きが、沈んでいく意識の中でなんだか妙に耳に残った。

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