第四章:五話

*** ***




 蛍琉の記憶の中に夏川くんの姿を見つけたあと、病室にハンカチを忘れて行った男の人は、彼だったのではないだろうかと思った。


佐山さんの話から考えて、その人は今年の五月頃から病院に姿を見せなくなったことになる。そしてその頃というのは、ちょうど私が夏川くんの指導を始めた時期と一致する。


私のもとで仕事を始めてから、彼はほとんど研究室に缶詰めのような状態だったから、蛍琉のお見舞いに行けなくなっていたのではないか。


一度頭にその考えが浮かぶと、私は確かめたくて仕方がなくなった。夏川くんは、蛍琉が夢治療の被験者になったことを知らないはずだ。それならば、彼は佐山さんの言う木曜日に、また時間さえできれば蛍琉の入院先へ向かうかもしれない。


しかし、待っていてもそれを確かめる機会は訪れそうになかった。私も彼も、相変わらず仕事に忙殺される日々が続いていたからだ。


そこで、私はある木曜日の朝、さり気なく彼に言ってみたのだ。


「たまにはお昼休み、外で食べてきたら? 息抜きになるよ」


と。彼は渋い顔をしていたが、私が彼の分の仕事もやっておいてあげると伝えると、


「変なこと企んでないでしょうね」


と、そういぶかしみながらも私の提案を受け入れた。夏川くんはかわい気こそないが、基本的に先輩の言うことは素直に聞く子なのだ。


それを知った上での、私の賭けだった。木曜日に外に出る時間を与えたところで彼が病院に向かうとは限らない。でもなぜかその時は、もしあのハンカチの持ち主が彼ならば、きっと蛍琉のところに行くはずだという確信めいた何かが、私の中にはあった。



 夏川くんが昼休みに入ったと同時に足早に席を立ったのを見て、私はこっそり彼のあとをつけた。彼は迷いなく研究センターを出て、たどり着いた先は、私の予想通りだった。


病院の入院病棟の一室。


そこは私が何年も通っていた場所だった。しかしその時、既に蛍琉の夢治療は始まっていて、その体は研究センターの一室に移されていた。だから病室の入り口に張り付けられたネームプレートには、もう私も、おそらく夏川くんも知らない人の名前があった。


彼はそれを見て驚いた顔をしたあと、しばらくその場に佇んでいた。そのあと彼がどうしたのか、私は知らない。声はもちろん、かけなかった。


昼休みが終わる頃、何事もなかったように夏川くんは研究室に戻って来た。でも、午後からの就業時間、ずっと彼は、どこか上の空だった。



 その日、私の中で心は決まった。弟の夢治療は夏川くんに任せようと。


そうして、私は蛍琉の担当を途中で降りた。


そして夏川くんに本当のことは告げずに、彼の初めての個人担当被験者として、彼に蛍琉を引き合わせたのだ。


我ながら酷いと思う。かわいい弟のためとはいえ、任される夏川くんに、かなりの精神的負担を強いることになる。それでも、ごめんね。私は弟を救いたいんだ。




*** ***




「これがラストチャンスだよ、夏川くん」


そして、私の前には今、弟の未来を託した後輩が立っている。


「はい。桜海先輩、許可を貰ってきていただき、ありがとうございました」


昨日は酷い顔をしていたけれど、今日はその目に、強い光が戻っていた。


「いーえ。もう私にはこれくらいしかできないからね」


「……もう?」


彼は、私の言葉にどこか違和感を感じ取ったのかもしれない。聞き返されたけれど、今は説明できないの。ごめんね。だから私は、笑ってその言葉を流した。


「さ、準備して行ってきて。成功を祈ってるよ」


「はい。必ず彼を連れて戻ります」


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