第四章:四話

*** *** 




 それは蛍琉が入院していた病院でのこと。私は仕事の合間を縫って、月に何度か蛍琉の様子を見に行っていた。基本的には、名目上研究センターの休みとして設定されている土曜日か日曜日に訪れることがほとんどだった。


蛍琉の夢治療開始をあと一、二週間と間近に控えた、今年の六月、初旬頃だったと思う。いつものように蛍琉の病室を訪ねて、眠ったままの弟の横で、静かに本を読んで過ごしていた時だった。


「凪咲ちゃん、こんにちは」


「あ、こんにちは。いつもお世話になってます」


私に声をかけたのは、蛍琉の点滴を交換しに来た佐山さやまさんという看護師さんだった。その人は蛍琉の担当看護師で、私もここに訪れるうちによく喋るようになっていた。


佐山さんには社会人になったばかりの娘さんがいて、今は遠くに暮らしていてなかなか会えないから寂しいと言っていた。


そんな彼女は、長い間ここに通い続ける私のことを、娘みたいと言ってよく気にかけてくれていた。


「今日はお休み?」


「はい。と言っても午前だけですね。午後からは出勤しないといけなくて」


「忙しいのね。無理してない?」


「大丈夫ですよ。なかなか人手が足りなくて」


「そう。あ、そうだ、凪咲ちゃん、お腹すいてない?」


「え?」


「昨日ね、私お休みで、カップケーキ焼いたの。良かったら貰ってくれない? 沢山作っちゃったから職場で配ろうと思って、ちょうど持って来てたの」


佐山さんの娘さんは無類の甘いもの好きで、子どもの頃によく佐山さんにお菓子を作ってとせがんだのだという。それがきっかけでお菓子作りを始め、今ではもう立派な趣味になっていた。


彼女は、そうして作ったお菓子をよく職場の同僚や、患者さんの家族に配っていた。私も貰ったことが何度かあるが、かなり美味しい。


思い出して、私のお腹がくぅと鳴った。恥ずかしい。もうすぐお昼になろうかという時間だったが、私のお腹、正直すぎやしないか。


私のお腹の虫が鳴く音を聞いた佐山さんは微笑んで、「ちょっと待ってて」と言い残すと病室を出て行った。



 少しして、佐山さんは透明な袋にラッピングされた、チョコレート色のカップケーキを手に病室に戻って来た。


「はい、どうぞ。ちょっと形は悪いけど」


「ありがとうございます。今日のお昼にでも、頂きます」


「うん。甘いもの食べて、エネルギーチャージしてね。それから凪咲ちゃん、これなんだけど」


そう言って、佐山さんはナース服のポケットから一枚のハンカチを取り出した。


「これは?」


「この前、ここにお見舞いに来てた人が、忘れて行ったのよ」


「両親ではなく、ですか?」


「いいえ、違うわ。蛍琉くんと同じくらいの年の男の人。その人、ほとんど毎週のようにここに来てたから、蛍琉くんとかなり仲の良かったお友達なのかなって思ってたんだけど。ご家族ではなかったから、私も時々挨拶をする程度で、よく知らないの」


「毎週?」


「えぇ。必ずではないけど、大体。時間はまちまちだけど、木曜日に来てたわ。それが先月から一ヶ月ほど、パタリと来なくなってね。忘れて行ったハンカチ、返そうにも返せなくて。もし心当たりがあったら、凪咲ちゃんから返してあげてもらえないかしら」


「そうですか。……分かりました。お預かりします」


実のところ、私にも全く心当たりがなかったが、とりえずその場は佐山さんからハンカチを預かった。


蛍琉のことをそんなに気にかけてくれる人とは、一体誰なのだろう。


手元のハンカチに目を落とす。青いタオル生地のそれには、茶色い熊が刺繍されていた。その熊をじっと見つめてみるが、それはただ黙ってこちらを見つめ返すばかりで、もちろん何も教えてはくれなかった。

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