第三章:二十三話
*** ***
「俺はずっと後悔してた。自分が許せなかった。なんでじいちゃんに会いに行かなかったんだろうって」
「夏川……」
「いつでも会えると思っていた人は、気がついたらもう一生、手の届かない場所に旅立ってしまってた」
「うん」
「色がなくなった世界で、俺はこれから先ずっと生きていくんだろうなって、漠然と思ってたんだ。そんな時、偶然あの駅で、お前の音が聴こえた。音の中心には、蛍琉、お前がいたんだ」
その日も朝からぎゅうぎゅうの満員電車に揺られ、そこに缶詰にされている人を、俺は無感動に見ていた。意味もなくスマホを流し見ている学生に、駅ではせかせかと会社に向かう無表情の大人。世界ってこんなものだったんだって、朝からため息が出た。
そんな時に聴こえてきたのが、あのピアノの音だった。そして、その音の中心には、蛍琉がいた。
なぜだか蛍琉の周りだけ、色がついて見えたから驚いた。久しぶりに見た、鮮やかな世界の色だった。
駅の雑踏の音や、さっきまですぐ横でぶつかりそうになっていた人なんか、全部が消えて。蛍琉の音と、彼の音が作り出す世界だけが、その時、俺を包み込んだ。
その世界は、全てがキラキラして見えた。聴こえた音に、胸がはずんだ。まるで、昔の、子どもの頃に戻ったようで。
俺はしばらくの間、何もかもを忘れてただ蛍琉の演奏に聴き入っていた。蛍琉から、彼の世界から、目が離せなかった。
昔はどんな小さなことも、今ではしょうもないなと笑うようなことも、その全部が輝いて見えていた。
祖父の連れ出してくれた世界が、見せてくれた世界の全てが、輝いていた。
その頃の景色をもう一度、見た気がした。
「たまたま駅ピアノを見つけて、好き勝手弾いてただけだよ、俺」
蛍琉にとっては、それだけのことだったのかもしれない。でも、俺にとっては、そうじゃなかった。
特別だった。
特別な音。特別な時間だった。
「なんか、自分の知らないところで見られてたと思ったら、恥ずかしいな」
「今更だろ」
「そうか?」
「……本気で照れないでくれよ。こっちまで恥ずかしくなるだろ。それに、まだ話の続きがあるんだ」
「まだあるの。ちょっと心の準備が……」
「もう勝手に話すぞ」
「えぇ……」
「高校でちゃんと知り合ってから、お前が転校するまでの間、俺たちはかなりの時間を一緒に過ごしたよな? あの頃、俺の日常の大半は、お前と、お前の音楽が占めていた」
「ピアノで連弾したり、あと、そういえばお前、歌ってくれたりもしたよな」
「……歌ったのは忘れてくれ」
「いい声だったけど?」
「……話を戻すぞ」
俺は一つ息を吐く。蛍琉もすっと表情を引き締めた。きちんと俺の話を聞こうとしてくれていることが分かる。
「お前と最初に連弾した日、あっただろ?」
「俺が最初にお前に会った日」
「そう。お前が、無理やり俺を病院にあったピアノの前に連れて行った」
「だってお前、俺が作ってた曲がどんなのか、知りたがったじゃん」
「それでまさか弾けって言われるとは思わないだろ」
「でも、楽しかっただろ?」
「……あぁ。そうだよ。楽しかったんだ」
俺はあの日、祖父が死んでからは初めて再びピアノを弾いた。もう自分から弾くことはなくなっていたピアノを、蛍琉に手を引かれる形で半ば強制的に。
気づけばピアノの前に座っていて、そうして俺の中で止まっていたはずの音楽が、再び始まっていた。
「それから、お前と、お前の音楽と過ごしているうちに、少しずつ俺の世界に色が戻ってきたんだ。最初はお前と過ごしている時間だけだった。それが少しずつ、他の時間にも広がって。気づけば俺の毎日は、沢山の色で溢れていた。お前が、俺を色のない世界から救い出してくれたんだ」
蛍琉と蛍琉の音楽が、傷ついた俺の心を少しずつ癒してくれたのだと思う。それは、誰にでもできることではない。
それは蛍琉にだから、できたことなのだと思う。
彼の心が、ピアノの音色に乗って、俺の心に届いたから。
心を覆っていたはずの黒い靄が嘘みたいに晴れて、俺は再び、世界を色のあるものとして認識できるようになっていた。
祖父が俺を広い世界に連れ出してくれたように、蛍琉もまた、立ち止まってしまった俺の手を引いて、そこから連れ出してくれたのだ。
「そんな大層なこと、してないんだけどな」
「お前にとってはそうでも、俺にとっては違ったんだ。蛍琉、音楽で人を笑顔にしたいって言ってただろ。お前のおかげで、俺はまた笑えるようになった。ちゃんとお前の願い、俺に届いていたんだよ」
「そっか」
俺の言葉に、蛍琉は少し照れた表情で頬をかいた。
「それから」
「うん」
「もう一つ、今回の夢治療を通して、思い出したことがある」
「何?」
「じいちゃんの言葉」
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