第三章:十九話

俺がお前を壊した。


そう言おうとした俺の言葉を、蛍琉は蛍琉らしからぬ強い声で遮った。それまで俺の横に並んでいた彼はそして、ゆっくりとした足取りで、俺の正面に、向かい合うように立った。


「今度は俺の番だな。お前はいつも俺のこと救ってくれる。お前が夢治療を担当してくれなかったら、俺はずっと過去の世界に、自分で勝手に悲劇だって勘違いして紡いだ物語の中に、囚われたままだった。今回のことだけじゃない。もっと昔から」


「……昔から?」


「俺がさっき、あの二人に言ったこと、覚えてる? 俺はそんなに綺麗じゃないって」


「あぁ」


「うん。でも、そういう所も含めて俺で、ぐちゃぐちゃになった音だって、それは俺の音楽なんだって。否定しなくていいんだって。それに気づかせてくれたのは、夏川なんだよ」


「……え?」


「俺がスランプだった時、お前、家まで来てくれて、俺に話をしてくれただろ。その時の言葉で、俺は救われたんだ」


「……オペラの楽曲、依頼されてた時だったか?」


「そう。それに高校の時だって、お前とお前のピアノの音に、沢山救われてたんだ。だから今度は俺の番」


そう言って彼はふわりと笑った。


「見ろよ、夏川。俺、この世界でこんなに笑えてるだろ?」


それは、俺がずっと願い続けていた、彼の笑顔。


「俺、今すごく嬉しいんだ。夏川がこの世界まで、こんなところまで俺を迎えに来てくれて。俺は、お前が大好きだよ」


その言葉で、俺の中に溜まっていた重苦しい何かがスーッと溶けていった。それはそのまま涙に変わり、俺の頬を伝った。


「だからさ、この世界にお前の後悔とか、これまでの苦しみとか全部置いて、俺と一緒に帰ってくれないか?」


そう言った彼が、こちらに手を差し伸べてくる。


ずるいだろ。そんなの。


他でもないお前に手を差し伸べられたら、取らない訳にはいかないじゃないか。


「……あぁ。帰る。一緒に帰ろう、蛍琉。今までちゃんと伝えられなくてごめん。俺もお前と、お前の音楽が、本当に大好きだよ」


彼の手を取ってそう答えると、蛍琉は一瞬驚いた顔をした。そしてもう一度、太陽みたいに笑って、俺が差し出した手をしっかりと握った。その目に少し光るものがあったから、きっと俺は今、二度目に彼が泣くところを見たことになるのだろう。


でも、今度のそれは、悲しみの涙じゃない。


あたたかくて、優しい涙だ。




*** ***




「あ、そういえばあの曲、コンクールでどうなった?」


「明人に聞いたら、予選通過後、すぐに吉村がそれ以降の審査を辞退したって」


「そっか」


「驚かないのか」


「……ねっしーだから」


その言葉に、今度は俺が「そうか」と頷いた。


きっと彼らの間には、どうしようもなく言葉が足りなかった。そして、それは俺と蛍琉の間にも同じこと。


だから。


「俺、お前に話したいことがある」


「何?」


「お前はさっき、いつも俺に救われてたって言ったよな?」


「うん」


「俺はだと思ってたんだ」

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