第三章:九話
「それで話って? 何が聞きたい?」
「まずはそうだな、吉村っていう生徒について聞きたい」
そう言うと、彼は虚を衝かれたようにポカンとした顔をした。
「は? 吉村? なんでここであいつの名前が出てくるんだよ。もしかして、あいつに言われてここに来たのか?」
「どういうことだ?」
「違うのか。だったら話が見えないんだが」
吉村はこの時点で既に、橋田の盗みを知っていたのだろうか。
いや、それはあり得ない。
俺は彼がウォークマンを盗んだ日から毎日、橋田を監視していた。そして今日、初めて彼はあの学習ブースで作業を始めたのだ。
蛍琉の記憶によると、確か吉村は、橋田が学習ブースで作業をしている時に、彼が作っていた楽譜を見たのだと言っていた。しかし今日、そんな出来事は起こっていない。
「質問に答えてくれ。吉村は、お前が蛍琉のウォークマンを盗んだことを知っているのか?」
「いや、それは……」
「話してくれるよな」
橋田が一つ、大きくため息を吐く。
「俺が実際に盗ったかどうかまでは知らないと思うけど、もとは吉村に教えてもらったんだよ。蛍琉がまた新しい曲を持ってきてるって。まぁ、実際見てみたら、俺と吉村が蛍琉の家に遊びに行った時、一回だけ頼み込んで聴かせてもらったウォークマンだったんだけどな。入ってるのは昔の曲だけで、大切にしてるから人には貸してないって言ってたやつ」
「……」
「俺、お前が蛍琉からどこまで話聞いてるか知らないけど、そんなにできた生徒じゃなくてさ。卒業制作も上手くいかなくて焦ってた。そしたら吉村が、『蛍琉からウォークマン借りる予定なんだ』って言ってきて。『もともと貸してもらう日に会えなかったから、蛍琉のことだし毎日そのまま持ってきてるかもしれない』って」
「それで?」
「俺も借りたいけど、いつもいつも貸してもらってばっかでもう頼みづらいって言ったら、『こっそり一日二日拝借しても大丈夫かもよ』って。そのあとすぐ『冗談だけどね』って笑ってたけど」
「吉村に唆されたのか」
「いや、だから別に、あいつにそんな意図はなかったかもしれないけどさ。一回知っちまったら、どうしてもその選択が頭に浮かんで」
そういうことか。ここでも吉村の名前が挙がるとは思わなかった。彼がのちにコンクールの曲を盗作している件を踏まえると、これはもう何らかの意図を持って吉村が橋田にウォークマンのことを吹き込んだと考えてもおかしくはないんじゃないだろうか。
「なるほどな。ちなみに吉村ってどんな生徒なんだ?」
「随分と抽象的な質問だな。まぁ、一言で言えば優秀なやつだよ。落ち着いた性格で、頼りにもなる」
「成績は二番目って聞いたんだが」
「あぁ。合ってるよ。トップは蛍琉。二人ともすごいけど、吉村は蛍琉には負けるっていうのがうちの生徒の認識だろ。蛍琉は頭ひとつ抜けた天才って感じだからな」
「どう違うんだ?」
「吉村はとにかくピアノのテクニックがすごい。頭も良くて、難解な曲を、その背景ごと理解して弾いてる」
「うん」
「蛍琉ももちろんそういう実力は、ある。けど、蛍琉の一番のすごさはそこじゃない。あいつの音楽を聴くと、自分の中から感情が、溢れかえってくるんだ。かと思えば、聴いてるうちに、あいつの世界に引き摺り込まれていって。気づいたら、もうあいつの姿から目が離せなくなってる」
橋田のその言葉を聞いて、俺の目の前に、あの朝の光景が蘇った。
駅の構内。
忙しなく行き交う人の群れ。
一様に無表情な、人。人。人。
どこまでも灰色の景色。
そこに突然現れた
眩しいほどに、鮮やかな
色。
目が離せなくなる。
そう。目が離せなかった。
そこにはピアノがあった。
そこには、
蛍琉がいた。
瞬きを一つ。瞼に焼き付いたその光景を、そっと胸にしまう。再び目を開くと、先程までと同じ場所。ここは大学。俺はベンチに腰掛けていて、横には橋田が座っている。
「分かる気がするよ」
ポツリと呟くと、橋田は静かに頷いた。俺は話を進めるべく、次の質問へと移った。
「なぁ、吉村は蛍琉のことどう思ってるんだ?」
「どうって。さあな。俺が知る訳ないだろ。本人に聞けよ」
「じゃあ他の奴らは? お前から見て、蛍琉は同じ学科の奴にどう思われてた?」
「そりゃ人によるだろ。普通にあいつのこと好きな奴もいるだろうし、目立つからどうしたって僻んだり、嫌いとか、強い感情向けてた奴もいると思う」
「お前は?」
「俺? 俺は友だちだと思ってたよ。まぁ、もうそんなこと言う資格ないけどな」
「そう、か」
「お前、さっき学習ブースで、俺が蛍琉の曲盗作してると思ったんだろ?」
「あぁ」
「ははっ。否定しないのな。確かに俺がさっき持ってた蛍琉のウォークマンは、あいつから借りたものじゃない。盗んだんだ。でも……もうこれは言い訳にしかならないんだけどさ、俺、別に蛍琉の曲を卒業制作で提出するつもりなんか、なかったんだぜ」
「ここまで書いておいてか?」
俺はスマホの動画に写った五線譜を見せる。
「よく見てみろよ。それ、ボールペンで書いてるだろ。そんでもって俺はまだパソコンとにらめっこしながら一音一音書き出しの真っ最中。その状態で、いきなり正式な提出用紙にペンで清書なんかしないさ。その五線譜は提出用紙のコピーだよ」
「え……?」
「前から俺、蛍琉にウォークマン借りたら時々、それと同じように入ってる曲を譜面に書き出したりしてたんだ。そうすれば何か良い音楽が、俺にも浮かんでくるんじゃないかって気がして。蛍琉に内緒で勝手にさ」
そこまで言って、橋田は複雑そうな笑みを浮かべた。今、彼の中には自嘲が、後悔が、憧憬が、懐旧が、そうした様々な感情が絡み合っているようだった。
「でもあいつの曲を書いてて、ある時唐突に気づいたんだ。いくらあいつの音を書き出したって、そこに、その先に俺の音はない、って」
「……」
「だから今回のこれも、俺なりのケジメのつもりで始めたんだよ。ともすればまた、あいつの曲に縋りそうな俺への、ケジメ。本物の用紙をコピーして、あいつの曲を、また昔みたいにそこに書いて。わざと本番みたいな状態にして、悪いことしてるんだって、自分に嫌ってほど理解させて。全部書き終わったらそれを捨てて、醜くても自分の音楽を作ろうって。そう思って書いてた」
俺は何を言っていいのか分からず、途中から黙って聞いていた。
「ま、信じるも信じないもお前の自由だけどな」
「……悪い。まだ完全にお前を信じることはできない」
「別に。あーあ、こんな話するつもりじゃなかったんだけどな。まぁ、見られたのが蛍琉にじゃなくてよかったよ。本人目の前にしたら冷静でいられる自信がないからさ。多分、自分を守るために酷いこと言って、あいつのこと傷つける」
「蛍琉には」
「あいつに言ってもいいよ。俺が盗みをしたのは事実だし、あいつの曲を譜面におこしてたのも事実だ。口では友だちとか言っときながら最低だよ。……どうするかも何を伝えるかも、お前に任せる。俺がどうこう言える立場じゃないだろ」
「分かった」
「他に聞きたいことがないなら、もう行かせてもらうぞ」
「あぁ」
「……蛍琉に悪かったって伝えておいてくれないか」
「それはお前の口から直接言え」
「ははっ。それもそうだな。今のは忘れてくれ。じゃあな」
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