第二章:二十話

*** ***



 パソコンを一時停止させ、研究室の明かりをつけた。これだ、と思った。映像は残り数時間。この日の夜、蛍琉は眠ったまま目覚めなくなった。そして、ここから先は映像を見なくても分かる。


なぜなら俺はこの日の夕方、おそらくこの出来事の直後、蛍琉に会っていたからだ。



 懸命に記憶を手繰り寄せる。そう、確か俺は蛍琉にどうしても見せたいものがあって、彼の姿を探していたんだ。


それは蛍琉も出場予定だというウィーン国際音楽コンクールのホームページ。毎年ピアノ部門では、出場者にエントリーと同時にオリジナル曲の提出を求めている。そしてエントリー後は順次、出場者の名前と提出された曲がホームページ上で一般の人に向けて広く公開されるようになっていた。


俺は歩きながらスマホを開き、蛍琉に「どこにいる?」と書いたメッセージを手早く送る。数秒してすぐに、メッセージを読んだことを意味する既読マークがついた。返信には「第四ピアノ室」の文字。



 音楽学科の授業が行われている教室棟には、第一から第五まで、ピアノが置かれた防音の個室が五つある。主に先生との一対一でのレッスンや、個人でこもって練習する時などに使用されているそうだ。部屋の使用は基本的には予約制だが、空いていたらいつでも使っていいらしい。


蛍琉もそこで、ピアノの練習か、もしくは作曲をしていたのだろうか。だが、彼は音楽に没頭している時に基本スマホは見ないから、返信があったということは休憩中なのかもしれない。


少し迷ったけれど、部屋を覗いて邪魔になりそうならそのまま帰ればいいかと思い、とりあえず俺は返信にあった第四ピアノ室へと足を向けた。


「蛍琉ー?」


部屋の扉を開けると、ピアノの前に置かれた椅子に、蛍琉が腰かけているのが見えた。俺の声に気づいて、彼が振り返る。


「やっほー夏川」


「今、邪魔していい?」


「うーん。邪魔するなら帰れ?」


「……じゃあ帰る」


「あ、待って待って冗談! 今、別に何もしてなかったから」


俺はこの時、どこか彼の姿に違和感を覚えた。けれどもそこに明確な理由はなかったし、振る舞いだっていつも通りの蛍琉に見えた。だから気のせいかもしれないと、その時はそれ以上深く考えることをしなかった。


「何もって。それもそれで問題な気もするんだけど。この前姫さん? との作品発表は終わったって言ってたけど、まだ卒業制作とコンクール、残ってるんだろ?」


「そうだなぁ」


「……なんか気のない返事だけど、大丈夫か?」


「……ごめん。大丈夫だよ。そんなことよりお前、俺に何か用があったんじゃないの?」


「あぁ、そうだった。これ、見たか?」


俺は鞄からスマホを取り出し、画面に例のホームページを表示して蛍琉に見せた。


「うん? コンクールのホームページ? へぇ、今年はこんな感じなんだ」


「やっぱり見てなかったか。ちゃんと情報収集しろよ。大事なコンクールなんだろ?」


「あぁ、うん。ほんとだな」


「ほんとだなって……。これ、ここのページにピアノ部門の出場予定者と、作品がもう何個か載ってるんだけど、お前と同い年の日本人がエントリーしてるみたいでさ」


「あぁ」


「その人の曲、試しに昨日、家で聴いてみたらすごくよかったんだ。蛍琉にも一回聴いてみてほしくて」


「お前によかったって言われるなんて幸せな奴だな。分かった。今晩にでも聴いてみるよ」


「URL送っといたから、あとで絶対聴けよ。じゃあ伝えたからな?」


「え、それだけ言いにわざわざ来たのか?」


「だってお前、メッセージとURL送るだけじゃ、絶対既読付けたあと忘れて聴かないだろ。念押しのためだ」


「信用ないなぁ」


「もっと色んなことに、とか言わないから、せめて同じ音楽やってる人とか作品は、もっと興味持って見てみろって。案外発見があるかもしれないし」


「俺が言えたことでもないけどな」と少し冗談ぽく言った俺の言葉に、いつもならあるはずの蛍琉の反応がなかった。この部屋に入った時に感じた違和感が、その時、確信に変わった。


「……」


「……なぁ、お前やっぱり今日ちょっと変だぞ? 何かあったのか?」


だから少し、直接的な言葉で聞いてみた。けれど、蛍琉は。


「……何もないよ。なぁ、そんなことよりせっかくここに来たんだ。ピアノ、弾いてくれないか?」


はぐらかされたのだと分かった。しかし、この時もう一歩、俺は彼に踏み込む勇気を持てなかった。


「お前が弾けよ。俺、練習の邪魔しちゃ悪いし」


だから結局、彼の言葉に乗って返したその一言。なぜだかその瞬間、部屋の空気がサッと変わった。理由は分からない。ただ、何か、張り詰めていた糸のようなものが切れたのだと、それだけは感覚で分かった。蛍琉が下を向く。そして。


「……い……だ」


「え?」


「なんかもう、弾きたくないんだ」


とっさに、彼から発された言葉の意味が分からなかった。あまりに唐突な拒絶の言葉。感情の色を失くした平坦な声音からは、その真意を計れない。ならせめて、顔を見たいと思った。けれど、俯いたままの彼から、その表情を窺い知ることなどできるはずもなかった。


「何、言ってるんだ?」


困惑して、馬鹿みたいに、浮かんだ疑問をそのまま口にした。すると存外、強い声が返ってきた。


「もうピアノを弾きたくないって、言ったんだ」


最初は聞き間違いかとも思った。それなのに、今度こそ、その可能性は明確に否定される。聞き間違いではないのだと、他でもない蛍琉本人から突きつけられる。徐に、蛍琉が俯けていた顔を上げた。やっと見られた彼の目は、そこにいるはずの俺を映してはいなかった。彼のそんな顔なんて、俺は見たことがなかった。


「なん、で」


やはり意味が分からなくて、俺はそう呟くことしかできなかった。困惑と混乱で、声が震えた。


その震えに、蛍琉も気づいたようだった。ゆっくりと、こちらを見る目に焦点が、光が戻っていく。そして完全に正気を取り戻した彼は、それと同時に、先程の自分の様子と発言に思い至ったのだろう。しまったと思ったのか、段々とその顔が青ざめていく。本来、あんな姿を俺に見せるつもりはなかったのだと、分かった。


俺は説明が欲しかった。そして今なら何か言ってくれるかもしれないと、少しだけ、期待した。けれど結局、蛍琉は何事か逡巡の末、その口から「ごめん」と謝罪の言葉を一つ溢しただけだった。居心地の悪い空気が、俺たちの間に満ちていた。


「ちょっと疲れてるみたいでさ」と、彼は取ってつけたようにそう言った。


沈黙が痛い。


心が痛い。


痛みを抑えつけるように、押し殺すように、俺は無理やり口を開いた。


「……こっちこそ、ごめん」


「……うん」


「別に、曲作りとか、練習をせかしてる訳じゃないよ。送ったやつも時間なかったら無理して見なくていいから。蛍琉ならそういうの、聴かなくても大丈夫だろうし」


「お前も思うの?」


「え?」


「俺は、他と違うって、そう、思ってたの?」 


「……そりゃあ、違う、よ」


「お前とも?」


俺が頷くと、蛍琉ははっきりと傷ついた顔をした。なぜそんな顔をしたのか、その時の俺には分からなかった。


そして。


「……そっか」


そのあと彼は、なぜか笑った。あまりにも場にそぐわない笑み。俺はそれに上手く笑い返せる気がしなくて、そんな彼から目を逸らした。


「……あんまり無理するなよ」



 あの日、そっとしておいた方がいいこともある、そう、自分を納得させてその場を去った。でもそれは言い訳で、本当は彼の中にあれ以上踏み込むのがこわかったのだ。近づいたら、壊してしまいそうでこわかった。蛍琉のことも、やっと再び繋げた俺たちの関係も。


臆病なまま、足ぶみを重ねた俺は、こうして雪加蛍琉に対する選択を間違えた。



 夜、彼に送ったメッセージ画面を開くと、俺のメッセージの横に既読のマークがついていた。画面を開けるだけ開けたのか、それとも俺が聴いてくれと伝えた曲だけでも聴いてくれたのか。明日、また改めて彼に会いに行こう、そう思って眠りについた。


そうして俺が当たり前に迎えた翌朝を、彼が同じように迎えることはなかった。

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