第二章:十九話
「蛍琉……?」
「……え?」
背後から、自分の名前を呼ぶ声が聞こえて振り返る。そこには、さっき出て行ったはずのはっしーが立っていた。まずいと思った。
「お前、それ、何勝手に」
はっしーの視線の先には五線譜の束。無意識にそれを握る手に力が入っていたらしい。俺が持っていたあたりが、潰れてくしゃくしゃになってしまっていた。
「あ、ごめん……」
「返せ」
そう言ってはっしーは俺から五線譜を、文字通りひったくった。そしてそれ以上何も言わず、黙って机に置いていた物を片付け始める。それが終わると、彼はそのまま俺の横を通って学習ブースを出て行ってしまった。
俺はそこでようやく我に返り、急いではっしーを追いかけた。追いついた彼の腕を勢いよく掴んで引き留める。
「なぁっ」
彼の腕に手が届く。振りほどかれるかと思った予想に反し、彼はされるがままだった。だらんと、俺に掴まれた腕が力なく下に垂れ下がる。
立ち止まったはっしーに、どうやら逃げる気はないようだ。しかし、彼の顔は相変わらず進行方向を向いたまま、こちらを振り向いてはくれなかった。
そんな状態で、しばらくの間、二人とも何も言わなかった。しかし、それも数秒のこと。
「……蛍琉、見たか?」
「え?」
「譜面、見たかって聞いてるんだ」
口火を切ったのは彼の方だった。俺は未だ困惑したままの頭で、なんとか返事を絞り出す。
「……うん。見た」
「じゃあ気づいたよな?」
「……」
「なんで何も言わないんだよ」
「いや、あの……ごめん」
「ごめんってなんだよ。見たなら分かるだろ。俺が何をしてたか」
「それは、うん」
「なら、なんで」
なんで怒らないのか。なんで責めないのか。
きっと、彼はそう言いたいのだろう。だが、俺はその問いに何と答えたらいいのか。何を言っても、間違える気がした。だから、核心を避けるように、俺は言葉を選んだ。
「……お前にだって、事情があるんだろ。理由もなしに、お前はそんなこと、しない」
「事情? 俺の何を知ってるって言うんだ?」
しかし、やはりそれでは言葉だけが上滑りする。伝えたいのに、伝わらない。
「……」
「お前が引き留めたんだ。はっきり言えよ」
だから。彼の言葉に背中を押されるように、俺ははっしーの心に少し、切り込んでみることにした。
「……進路のこと。ずっと、悩んでたんだろ?」
するとはっしーが先程までと一転、パッとこちらを振り向いた。やっと見られた彼の表情には、しかし、驚きと困惑がありありと乗っていた。
「は? なんだよそれ。進路のことって……。なんでお前……。誰かに聞いたのか? それともお前も、俺なんかじゃ音楽を続けるのは難しいって言いたいのか?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
その試みは失敗した。俺は間違えたのだと、気がついた。けれど、もう発言を取り消すことなんてできない。更にはそれを訂正するための言葉も、彼に向かって口にするべきだった何か正しい言葉も、結局、俺は見つけ出すことができなかった。引き返すことはできない。だからと言って、更にこれ以上、彼の心に踏み込む勇気も、持てなかった。
「なんだよ、それ」
そうしているうちに、はっしーの口が歪な笑みの形に変わる。大きく息を吐きだしたかと思うと、次の瞬間、彼の口から乾いた笑いが漏れた。
「ははっ。お前はいいよな。才能に恵まれて。俺たちが地道に努力してやっと弾けるようになった曲を、お前はあっという間に誰よりも上手く弾いてみせる。人が机に噛り付いて必死で一曲書き上げる間に、名曲を次々と生み出せる」
「そんな」
そんなことはないと、そう言おうとして。彼の目に悲しみの色が浮かんでいることに気がついた俺は、何も言えなくなってしまった。口を閉ざした俺を見て、彼は少し冷静になったのだろうか。さっきまでの感情の昂った様子が、気づけばさっと鳴りを潜めていた。
「……いや、悪い。違う。……今のは忘れてくれ」
「……ごめん」
「だからなんでお前が謝るんだよ」
「だって俺は、お前を傷つけた。これまでも、そうだったんだろ?」
俺の言葉に、はっしーが僅かに目を見開く。それからまた一つ、地面に向かって大きなため息を落とした。反射でビクリと肩が震える。
「……安心しろよ。これは提出用じゃない。俺だってそこまで恥知らずじゃない」
俺の問いには答えず、彼はそんなことを言って。苦しそうに、笑った。掴んだままになっていた彼の腕から、かすかな震えが伝わってくる。
「……あの」
とにかく何か言わなければと口を開いたが、それは同時に発された彼の言葉で遮られた。
「ちょっと聴くだけって思ったんだ。全然納得のいく曲が作れなくてさ。でも、こんな時までお前の曲を参考にさせてって頼むのも情けなくて。悩んでたら、たまたま……」
そんな彼に、結局俺が伝えられたのは、一つだけ。
「……お前がいつも作る曲、俺は好きだった」
その言葉だけだった。もう、彼の顔を見ることができなかった。でも彼がまた、笑ったのだと気配で分かった。それは俺に向けられた、先の歪なものでも、乾いたものでもない。彼が彼自身に向けた、自嘲の笑みだった。
「まさか、こんな情けないことしてる所を本人に見られるなんてな。俺とお前は違うって、気づいてたのに……。もう俺たち、友達じゃいられないな」
「……」
俺とお前は違う? 友達ではいられない?
その言葉が脳内を何度もリフレインする。ジクリと、胸が痛んだ。俺は、ただその場に立ち尽くしていた。そんな俺を置いて、彼は掴まれていた腕をそっと引き抜くと、もうこちらを振り返ることなく歩き去って行った。
彼の背中がどんどん遠くなる。声を出したいのに、喉がカラカラに渇いていた。体は、そこに縫い付けられたように動かなかった。
もう二度と、もとには戻れない。
何かが壊れる音がして、俺は無意識に、両手で耳を塞いでいた。
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