第二章:十八話

 結局、その日はまっすぐ家に帰った。大学に戻ればもしかしたらはっしーがまだ残って作業をしていたかもしれないけれど、まだ彼に会う決心がつかなかったのだ。


家に帰ったあとは、俺も卒業制作と年末のコンクールに向けた曲作りをしようと、作業に向かった。でも何の音も浮かばない。試しにピアノで適当に音を鳴らしてみるが、効果はなかった。


卒業制作の方はまだ猶予があるけれど、コンクールは既に曲の提出が始まっている。こちらはエントリーと同時にオリジナル曲の提出が求められているから、そろそろ仕上げないとまずい。それなのに、一つの音も書けない。


俺は無意識のうちに、白紙の五線譜を手でぐしゃぐしゃに握りつぶしていた。そのままどれくらいの時間が経ったのか、気づけば朝を迎えていた。



 一睡もしないまま登校した大学で、放課後までの時間はあっという間にやって来た。いや、むしろ逆で、今までのどんな時より時間が経つのが遅かったかもしれない。


その日は一日中ずっと頭がぼうっとしていた。けれども放課後、学習ブースの入り口に立った時、心臓だけは妙にバクバクと忙しなく鼓動を打つものだからおかしかった。


控えめに扉を開けると、入り口から見て右後方の席に、見慣れた背中を見つけた。髪が真っ赤だからすぐに分かる。はっしーだ。彼はノートパソコンにイヤホンを繋いで、何かを聴いていた。時折パソコンを操作したり、手にしたペンで手元の紙に何事か書き込んだりしているのが見える。


俺は彼の座る席に向かって一歩、足を踏み出そうとして。そこで、はたと立ち止まる。


俺は彼に、何と声をかけたらいいのだろう。


普通に挨拶? 


それから、


今書いてる譜面、見せてって? 


けれど、彼が卒業制作とは無関係の作業をしていたら、その譜面を見たって俺が確かめたいことは分からない。


それなら、もう直接卒業制作の話題を振ろうか。俺は学習ブースに卒業制作のための作業をしに来たことにして。入ってみたら、たまたまはっしーを見つけて声をかけたのだ、という設定で。


調子はどうか。


進捗具合は?


どんな曲を作っているのか、よかったら教えてほしい。


そんな風に、なるべく自然に話を振って。しかし、もしも誤魔化されてしまったら。


そこまで考えたところで唐突に、俺はある重大な事実に気がついた。それは、俺が彼を、結局はのだという事実。


ここにこうして足を運んで、偽りの設定まで考えて。何と言って話しかけるかすら、考えないと行動に移せない。そんな状態で。どの口が彼を信頼しているなどと言えるのか。


俺は、彼を、少なからず疑っている。そのことに気がついて、愕然とした。


はっしーのことを信じると言ったのは、俺なのに。 


友だちを信じられないなんて。こんなにも簡単に疑えてしまうなんて。俺、最低じゃないか。


「あの、入らないんですか?」


ふつふつと湧き上がってくる複雑な思い。それをどうすることもできずに立ち尽くしていると、背後から躊躇いがちに小さく声をかけられた。入り口に立っていたから邪魔になっていたのだろう。


「あ、すみません。どうぞ」


俺はとっさに、早口でそう答えて。はじかれるように学習ブースの外に出ていた。かといってそのまま完全にに立ち去ることもできなくて。入り口から少し離れた場所で、隠れるように身を小さくしてしゃがみ込んだ。



 しばらくそうしてうずくまったまま、時々学習ブースの扉が開いて中から人が出て行くのを見送った。何回かそれを繰り返して、また扉の音が鳴ったから顔を上げた。


ドキリとする。はっしーだった。


彼はこちらに気づくことはなく、そのままどこかに向かって歩いていく。追いかけなければと立ち上がりかけたところで、彼がいつも使用している肩掛け鞄を持っていないことに気がついた。


今日は荷物が少ないのだろうか。いや、さっきノートパソコンを使っていたということは、それが入るくらいの鞄は何かしら持って来ているはずだ。


それなら、もしかして一時的に席を外しただけだろうか。


そう思って今度こそ立ち上がり、彼が出て行った扉に近づいてそっと開ける。先程までとほとんど変わらない光景。彼が座っていた席に目をやると、やはりまだ荷物があった。作業の途中にお手洗いにでも立ったのだろう。パソコンも開きっぱなし。何やら書いていた紙も、机に置かれたままで放置されている。


これはチャンスだと思って中に入った。冬だというのに嫌な汗が背中を伝う。彼の席に近づいて、やはり書きかけの譜面だった白い紙を持ち上げて。そこに目を通すと同時、俺は言葉を失った。


ボールペンでびっしりと書かれた音符を目で追うと、頭に流れ込んでくるのは聴いたことのある旋律。


聴いたことがあるも何も、それはだった。


そして、それが書かれた紙は、卒業制作の正式な提出用紙として学校から配られた五線譜だ。


ねっしーの言った通り、はっしーは俺の曲を盗んで、作品として提出しようとしていたということだろうか。


目で追う個所からは相変わらず、聴き覚えのある音楽が流れ続けている。俺はただ、唖然としてその場に佇んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る