第四章 エピローグ 交渉人・平手政秀


 もう夜も遅くなる故、泊まってはどうだと帰蝶を逗留させたあと。


 織田信秀は平手政秀を私室に呼び出した。いくら嫡男の傅役とはいえ、当主の私室に呼び出すなど滅多にあることではない。平手の表情が厳しいのもむべなるかなといったところか。


 室内にいたのは信秀と、妻である土田御前。護衛はおろか小姓すらいない。


 信秀の病状はすでに回復したはずだが、いまだに脇息に上半身を預けている。どうやら単純に気に入ったらしい。簡単に『偉さ』を演出できるので是非も無しか。



「――嫁殿は良き女であったな」



「…………」


 正気か? と我が耳を疑う平手だった。同時に土田御前も何とも言えない顔をする。


 いや確かに善人ではあるのだろう。困っている人を放っておかないし、悪事を働いた様子もない。


 だが、良い女……? 良い女という評価でいいのだろうか? 善行はもちろん積んでいるが、同時に多くのやらかし・・・・をしているし……周りへの被害を考えると……。


「爺は真面目よのぉ」


 くっくっと笑う信秀であった。


「真面目すぎるきらい・・・があるが、『マムシ』相手にはそのくらいの方がいいだろう」


「……と、いいますと?」


「悪意や欲望を持って近づけば、たちまちあのマムシに利用されよう。爺くらい生真面目であれば、道三坊主も調子を狂わされるというものだ」


「は、はぁ……?」


 平手とて、悪意や欲望を有している。信長の傅役に任命されたときは我が家の栄達は約束されたと喜んだし、信長が『うつけ』を悪化させてからは悪感情を抱くこともあった。そんな自分がさも善人であるかのように語られると……。


 端から見ても考えていることが分かる平手を見て、信秀はついつい笑ってしまう。


「そういうところだ」


 こういうところらしい。と、納得できるほど平手は単純ではなかった。


 しかし信秀からの命令であり、尾張と美濃の同盟に関わる話。さらに言えば『主君』である信長と、帰蝶との婚約に関わる重大任務だ。他の者に任せるという選択肢はない。


 恭しく下命を拝する平手であった。







 平手が辞去したあと。


「相変わらず、考えていることが分かり易い男ですね」


 土田御前が呆れたようにため息をつく。あんなにも分かり易い男に外交ができるのかと不安になるのだが、成果を残しているので文句も付けにくい。


 そんな妻の様子に信秀は笑みを零してしまう。


「ふっ、そう言うな奥よ。マムシのような男には、むしろ爺のような人間が適しておるのだ」


「と、いいますと?」


「謀略家というのは根本的に他人を信用できん。あそこまで分かり易いと、逆に『演技ではないか?』と疑いを抱いてしまうのだ。付き合いが長ければ爺の本性も理解できるが、道三は交渉の場くらいでしか平手の人となりを知ることができん。……一度疑ってしまえばもうそれまで。勝手に疑いを深め、勝手に自重し、それなりの成果で納得し交渉を纏めるしかできなくなる」


「…………」


 土田御前としてはいまいち釈然としないが、他でもない信秀が言うのだ。事実そうなのだろうと納得することにした。


 斎藤道三は間違いなく腹黒であり、謀略家だ。

 そして、そんな道三と長年やり合ってきたのが信秀という男なのだから。


「……失敗しないことを祈るだけですね」


「で、あるな」


 くっくっと笑う信秀はまるで交渉の成功を確信しているかのようだった。


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