閑話 織田信長、信長公記を読む
とある日。
織田信長は私室で筆を走らせていた。戦国武将は通常右筆という代筆者を使って手紙を記すが、戦場などでは自分で書くこともあるので最低限の練習はしているのだ。
今勉強しているのはいわゆる楷書体。高貴な身分が使う文字であり、普通の戦国大名であれば使える場合も多いが、信長の場合は『うつけ』だったので改めて勉強中である。
そんな信長の背中。『押しくらまんじゅう』をするように背中を合わせているのは美濃守護代斎藤道三の娘、帰蝶である。
濃尾同盟に関する話が進んでいるとはいえ、未だ尾張と美濃は敵国であり。婚姻に関する話が持ち上がっていることも事実であるが、未だ信長と帰蝶は夫婦ではなく。にもかかわらず帰蝶は当然のように信長の部屋にいるし、信長ももはやそれを指摘することは諦めた。
「ねぇ、三ちゃん」
なにやら見慣れぬ装丁で作られた本を読みながら帰蝶が可愛らしい声を上げる。
「うむ? どうした? また何かやらかしたか?」
「……三ちゃんは私のことを何だと思っているのかしら?」
「少し目を離した隙にとんでもないことをやらかす妻だが?」
「やだ、もう『妻』呼ばわりだなんて情熱的ね。照れちゃうわ♪」
「……で、あるか」
なんだかもう帰蝶のアホさ――ではなく、奇っ怪さ――でもなく、物珍しい言動を『で、あるか』で流してしまう信長であった。人間とは慣れる生き物だ。適応力こそ人間の強さだ。諦めただけとも言う。
「……なにか聞きたいことがあるのではないか?」
「あ、そうだった。信長公記を読んでて疑問だったのだけど、『上槍、下槍』って何?」
「しんちょうこーき?」
謎の単語に首をかしげる信長であるが、帰蝶が理解しがたい言動をするのはいつものことなので質問に答えることにした。
「長槍は一度上に振り上げてから、敵に向かって振り下ろすのが基本的な戦い方だ。しかし長槍は重量があるし、『たわむ』ので意外と振り上げるのに時間がかかるのだ。その振り上げている隙を突かれて敵に接近されては
「……三ちゃんってそんな長文を喋ることができたのねぇ」
「おい」
そもそも『で、あるか』ですべての会話を終了させる癖があった信長がこれだけ喋るようになったのは帰蝶のせい――いや、おかげだというのに。
信長が冷たい目を向けると帰蝶はわざとらしくキメ顔を作った。
「なるほど、振り上げるのが上槍で、地面に這わせて敵の足元を狙うのが下槍と」
「……で、あるな」
「ふぅん、ちょっとしたファランクスねぇ。もうちょっと槍の数を増やして『中槍』も用意すれば和製ファランクスが――」
「ふぁらんくす?」
「
気軽にファランクスやらアレクサンダーやらの知識を教えてしまう帰蝶だった。こういう『学習』の積み重ねにより、後の戦国合戦がひどいことになるのを帰蝶はまだ知らない。
「なるほど興味深いな……。しかし、上槍、下槍は織田家中の秘であるはず。その奇妙なる装丁の、本? に書いてあるのか?」
奇妙なる装丁。信長の目にそう映るのも当然だ。なにせ『現在』から4~500年後に出版されることになる『現代語訳版・信長公記』なのだから。
「ふふ~ん、よくぞ見抜いたわね三ちゃん! これこそが『織田信長』のすべてが記されている未来の書、信長公記なのよ!」
「未来の書ぉ~?」
何を言っておるのだ、という顔をする信長。だが、すぐに考えを改める。
だって帰蝶だし。
だって帰蝶だし。
帰蝶なら未来から本を持ってくることもあろうと信長は考えることにした。人間とは慣れる生き物だ。適応力こそ人間の強さだ。諦めただけとも言う。
なんだか気安い感じに本を手渡してくる帰蝶。
どうしたものか、と信長は悩む。
帰蝶によれば『織田信長』のすべてが記されているという。
未来を知ることができれば、より良い人生を送ることもできるだろう。
だが、もしも自分の人生が凡庸であったなら?
自分の望むものでなかったとしたら?
信長は、これ以降、どんな生き方をすればいいのだろうか?
未来を変えるために最善の行動を取る。それが正解なのだろう。
だが。
たった一冊の本のために自分の言動を縛られるというのは――きっと、とても
しかしここで本を開かなければ『あ~、三ちゃん未来を知るのが怖いんだ~? かっわいいなぁもう~』と煽られるだろう。
帰蝶からすれば本心からの『かっわいいなぁ』でも、信長からすれば煽りでしかない。
「――是非に及ばず!」
えいやっと信長は一気呵成に本を開き、目を通して――
「……読めん」
現代人が古文書を読めないように。信長も現代日本語は読めないようだった。
そもそも、
ちなみにプリちゃんは空気を読んで席を外していた。二人きりの時間を演出しただけでツッコミを放棄したわけでは、ない。はずだ。
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