第71話 宴席

 じゃりじゃりと足の下で小石が揺れる音と、背後から感じる視線を受け、翠は真っ暗なコンテナに近づいた。


「魔除けを施された私たちに手出しはできないから大丈夫。あなたは昔のようにお酒をひとりずつに注ぎなさい。私は折箱を持ってくるから」


 扉の前で彩は言う。


 翠は両手で一升瓶を抱えて頷いた。いや、単純に大きく震えただけだったかもしれない。


 それほどの怖気おぞけが身体中を支配している。

 なぜ幼いころの自分は怖いと感じなかったのだろう。


 彩が一歩前に出る。風が吹き、緋袴の裾が揺れた。

 赤の残像が淡く周囲に散る。


 彩は横引きの扉に指をかけ、一気に開いた。

 どくり、と翠の心臓は拍動したが異変はない。


 化け物が飛び出してきたり羽音がしたり血が飛び散ったわけではない。


 コンテナの中には。

 闇が凝っていた。


 不思議だと思う。

 それなのに視界がくのだ。


 コンテナの中には向かい合わせに座布団がずらりと並べられていた。


 十五ずつ。

 全部で三十だろうか。


 座布団の前には黒塗りのお膳が置かれ、箸とコップ。盃が並べられている。 

 上座にあるのは白木のお膳。


 その上には彩が伐り取った竹の上部が半紙にくるまれて置かれていた。


 すう、と息を吸う音がする。

 翠は彩の背中を見た。彼女の背中にふくらみが感じられるほど彼女は肺に空気を送り込んだ。


「準備が整った」

 朗とした声で告げる。


「布士のあやと、みどりが宴席を執り行う」


 途端にそれぞれのお膳の前に座った男たちが姿を現した。


 時代劇から抜け出してきたような紋付き袴を着た侍姿もあれば、とっくりとよびたくなるセーターを着た若者もいる。真っ白な髭を仙人のように伸ばした、みすぼらしい老爺ろうやもいる。


 それらは楽しげに互いに言葉を交わし、嬉しげに盃を手に取る。


「じゃあ頼むわね」

 彩は言うと、翠を置いて折詰を取りにコンテナへと戻って行った。


 翠は覚悟を決め、扉をくぐってコンテナ内に入る。草履を脱いでその場で膝をつく。一升瓶の封を切ると、コンテナ中に喜色溢れる声が広がった。


「みどり、みどり。早く酒を」

「待ちかねたぞ、みどり」


 口々に名前を言われる。翠は返事もせずに立ち上がった。俯き加減に向かい合わせに膳が並ぶ中央を足早に進む。


 一番の上座に行き、跪く。男が掴む盃に順番に盃に酒を満たし、次に向かいの男の盃に酒を注いだ。


 それが合図のように誰もかれもが翠に盃を突き出してくる。

 翠は順番に酒を注ぎ、下座へと移動していった。


 酒のせいなのか、それとも男たちが発するのか。熟した柿に似た臭いが部屋に充満してきた。吐きそうだ。


 石堂が魔除けに使う日本酒はりんごに似た香りがするのに、どうしてここでは腐乱する寸前の果物の臭いになるのだろう。


「おそいぞ!」

「まったく気の利かぬやつだ」


 吐き捨てられながらも、無言で酒を注ぐ。


(……これって……ここで聞いてたの? それとも営業部の宴席?)


 大人になっても、他人に酒を注ぐのが苦手だった。というか、いつも怒られている記憶があった。


 みどり、という発音と共に、他人に酒を献ずる行為が苦手なのは、根底にこの記憶があるからかもしれない。


「みどり! もう一度」

 下座まで全員注ぎ終わると上座からすぐに声がかかる。


 翠は再び上座まで進む。

 同時に背後で物音がした。

 目だけ動かすと緋袴の赤が視界をかすめる。彩だ。


「食事である」

 明確に告げるとまた場が沸く。


 彩は折詰をひとつずつ持って綺麗な所作で膳に載せていった。酒を注ぐ翠にぶつかることもなく、手際よく下座まで並べていく。


「酒が足らぬ!」

「煮物をもっと!」


 あちらこちらから大声が聞こえてきた。


「みどり、あるだけ持ってきて」

 彩が翠の手から一升瓶を取り上げる。翠は頷き、小走りにコンテナを出た。


「大丈夫ですか、布士さん。顔が真っ青ですよ」

 テントに近づくと、石堂が驚いたように目を見開いた。


「大丈夫です。ちょっと吐きそうなだけ」


 必死に笑顔を作ろうとしたがうまく行かない。悠里などは自分の鼻をつまみ、露骨に嫌そうな顔をした。


「なにこのにおいー」

「随分と汚れたお客様のようですね」


 榊も呆れている。


「なになになになに! ちょっと! 詳しく話してほら! あのコンテナの中、どんなのなの!」


 ウキウキした様子で蘆屋が喜んでいてこれはこれで気持ちが悪い。


「これ……持っていきますね」

 翠は一升瓶を二本と、瓶ビールを持てるだけ抱えた。


「わたしが運びましょう」

 伸ばした石堂の手を、パシリと竹の枝で叩いたのは榊だった。


「だめだめ。石堂くんがあのコンテナに近づいたら一発で死んじゃうよ。全部吸い込んでさ」


「そうだよ、人間スポンジなのに。大人しくここにいて」


 悠里が顔をしかめた。

 不満げな石堂に翠は笑いかける。


「大丈夫です。私ほら、はじくらしいから」


 そう言って酒瓶を持ってコンテナに戻った。

 扉からは入れ替わりに彩が出て来る。


「煮物と酢の物を持ってくる。それ、通路に置いておけばあとは勝手に自分たちで注ぐと思うわ。あるだけ酒を」


「わかった」


 頷いて膳に近づく。

 翠が抱える酒瓶を見てまた歓声が上がるが、だいぶ酔いの色が強くなっていた。


「みどり、ここじゃ!」

「みどりちゃん、こっちへビール!」


 言われるままに封を切って瓶を置いていくが、どんどん手が伸びて瓶が消えていく。


(これ……足りるのかしら)

 テントに取って返そうとしたら、彩が鍋ごと煮物を持ち込んでいるところだ。


「天ぷらがいいな、わしは!」

「めしはどうした、めしは!」


 酔ってきたからなのか要求はとどまることを知らない。


「酒を全部運び終わったら、炊飯器ごと持ってきて」

 翠は彩に命じられるままに走る。


「布士さん、これ」


 テントの中に用意された酒は運びやすいように石堂がビニール袋に入れてくれたらしい。礼を言って手に取ると、「後ろむいて」と言う。


 なんだろうと石堂に背を向けると、振袖を素早くたすき掛けにしてくれた。


「ありがとうございます」


 これは動きやすい、と顔をほころばせるが、石堂は端整な顔を歪ませる。


「なにもお手伝いできず心苦しいばかりです」

「なにもしないのが尊の仕事。余計なことしない、ほらこっち」


 悠里が手を引っ張って翠から引き離していく。


「もう少し待っててくださいね」

 翠は言い、酒瓶を詰めたビニール袋を抱えてコンテナへ戻って行った。

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