第28話 願掛けの紙片

「……そろそろ副社長、帰ってくるよね」

 翠は壁にかかった振り子時計を見る。


 時刻は18時。

 一時間前にスマホに連絡があり、『この道路状況だと、18時には到着します』と、本人が言っていた。


「ずっと思ってたけどさ。ふくしゃちょー、って呼び方どうなのよ」


 えいや、と掛け声をかけて悠里が起き上がる。

 翠は報告書の作成をあきらめ、パソコンの電源を落とした。


「副社長は副社長でしょう」

「石堂さん、とか、尊さんとか、尊、とか。いろいろあるじゃん。そのままじゃ、全然距離が縮まらないよ」


「別に縮めたいわけじゃない」

 翠は苦笑いする。


 同時に、画面が暗転した。電源が落ちたらしい。

 画面を閉じようと手を伸ばした時。


 真っ黒になり、鏡面化した画面。

 映るのは、翠の上半身。


 その背後。

 肩口。

 そこに。


 白がある。


(ちがう。これ……)


 開襟シャツの白、だ。


 いる。

 男が。


「……っ」

 反射的に振り返る。


 当然だが。

 そこにはなにもいない。


 コーヒー豆と紅茶の缶が並ぶキッチンカウンターが見えるだけだ。


「…………え」

 ばくばくと暴れ回る心臓をなだめ、翠は再度パソコン画面を見た。


 ふわり、と鼻先をかすめたのは、湿気た土の匂い。

 だがそこには自分以外、なにも映っていなかった。


「お姉さん?」

 訝し気に問われ、翠は口角を上げる。


「なんでもない。もう、文章は書かない。副社長に直接報告する」

「それがいいかもねー」


「あ」

 つい声を出した。

 エンジンの音が聴こえる。顔を窓の方に向けた。


 続いて、ぴょこん、と悠里が立ち上がった。


「尊だー。おかえりぃ」


 まるで室内犬のように玄関まで駆けていく。

 翠はノートバソコンを閉じ、なんとなくその後ろをついていく。ひとりで部屋に残るのが不安だった。


「ちゃんとやっていたのか、悠里」

 開錠音の後、ポーチに姿を現したのはスーツ姿の石堂だ。


「やってた、やってた。なにそれ、なにそれ」

 石堂が両手にぶら下げている紙袋が気になるらしい。


「夕飯。もう、今日は作らんから」

「わー! 食べよう、食べよう!」


「お前はもう帰れ。電車無くなるぞ」

「あるある! 最終で下宿に帰ればいいんだもん! お姉さん! ごはん、ごはん!」


 ばたばたばたばたと、また、リビングの方に向かって悠里が走ってくる。「やかましい」と石堂が怒鳴りつけた。


「騒がしくて申し訳ありません」


 顔をしかめて石堂が詫びるから翠は笑って首を横に振る。悠里は翠とすれ違ってリビングに入り、今はキッチンで皿やカトラリーを探っていることだろう。


「おかえりなさい。お疲れ様です」

 荷物を何か持とうかと手を差しのべるが、石堂は緩く首を横に振る。


「名田愛花のご両親には会えましたか?」

 尋ねられ、翠は眉を下げた。


「本人にも会えたのですが……。途中、やはり混乱したようで……。悠里くんとふたりで帰ってきたところです」


「混乱?」

 石堂が首をかしげるから、翠はかいつまんで説明した。


 両親だけではなく、愛花本人にも会えたこと。

 彼女は一願成就の噂を聞きつけて中洲に行き、社の前に紙を置いたこと。


「愛花さんとご両親が言うには、願いは聞き届けるけど、代わりに二番目に大切なものをもらう、と。その覚悟がある者だけが願いをかなえることができる、と聞いていて……」


「二番目に大切なもの?」

 石堂が訝る。翠は頷いた。


「ご両親も先生もはっきりおっしゃいませんでしたが……。たぶん、愛花ちゃんが二番目に大事にしているのは、外見、じゃないか、と……」


 実際会ってみて思った。包帯をしていても、彼女はかなりの美少女だ。


「それが、彼女が遭った事故の理由だ、と?」

 石堂はビジネスバックを持ち替え、ネクタイの結び目を緩めた。


「そのように、本人もご家族も考えているように思えました。だからこそ」

 翠は一旦言葉を区切る。耳に蘇るのは、愛花の低い声だ。


『あなた、社に行ったの?』

 翠にそう問いかけ、かつ、お前はどんな目に遭ったのだ、と怒鳴ってきた。


「そういえば……。副社長。あの紙はどうなさいました?」

 ふと、翠は石堂を見上げる。


「紙?」

「社の前にあった紙片です」


「ああ。ワンショルダーのポケットに入れたままですね。必要ですか?」

 問われて、翠は深く頷く。


「ひとつは、愛花さんがなにかを書いて置いたと思われます。もうひとつは話の内容から察するに、愛花さんより先にあったようですね」


「あの紙、そういう意味ですか。願い事を書いて、社に前に置いておく……」

 石堂が呟く。


「ねえねえねえ! いつまでそこにいるのさっ。早くごはん、ごはん!」

 リビングから飛び出してきた悠里に、石堂は紙袋を押し付けた。


「並べてろ。おれは着替えて、紙片を持ってくる」

「はーい。あ。お姉さんも、手伝って」


 片手に紙袋。片手に翠の手を掴み、悠里はぐんぐんとリビングの方に引っ張って行く。


「冷蔵庫にビールとかあるけど、お姉さん飲む?」

「悠里くんは飲むの?」 


 逆に尋ねると、「飲もっかな」と返事がきた。


「じゃあ、私も……」

「了解。お姉さん、テーブル準備して」


 悠里はというと、キッチンの中に入って紙袋からいくつもの惣菜パックを取り出している。


「ぼく、ここのごはん、好きー」


 ガサガサと袋が開かれる音に続き、ご機嫌な悠里の声が聞こえてくる。翠は知らない店名が書かれていたが、悠里には慣れ親しんだものだったらしい。


 翠はテーブルの上に乗ったままのパソコンを一旦部屋の隅に置くと、布巾で拭いてランチョンマットを広げたり、取り分け皿を並べ始めた。


 その間に次々と料理を盛った皿を悠里が持ってくる。総菜やサラダ、から揚げやローストビーフが上手に盛りつけられていた。


(ここの男手は、なんでもやるのねぇ)

 なんだか感心する。


 翠などこの研修施設に来てからずっと、石堂の手料理を食べてばかりだ。そのかわり、掃除を請け負っているが、大人だけしかいないし、なんなら日中は調査で外に出ているから、そんなに汚れない。家事分担の比率がおかしなことになっている。


「座って、座って」


 カトラリーを並べていたら、悠里が缶ビールとグラスをトレイに載せてやってきた。


 さっきまで自分が座っていた場所に腰掛ける。悠里がグラスと缶ビールを置いてくれた。その後、居室扉が開く音が廊下から聞こえ、すぐに石堂が姿を現す。上着を脱ぎ、ネクタイを外しただけの姿だ。


「お待たせしました」


 言ってから翠の隣に座る。向かいには悠里が陣取り「いただきまーす」と威勢よく声を上げて取り皿に盛大にから揚げを載せていく。


「あ……、っと。副社長」


 目を泳がせてから、翠は石堂の前に置かれた缶ビールに手を伸ばす。やっぱり注いだ方がいいのかな、と思ったのだが、さっさと取り上げられた。


「自分の分は自分で。なので、布士さんも自分で注いでください」


 言われて、ちょっとほっとする。仕事柄酒を注いだりもしたが、あんまりうまい方ではない。泡が多いだの、ぼうっとするな、とすぐ叱られていた。


「紙を持ってきました」


 翠がプルタブを上げ、グラスにビールを注ぎ終わるのを見計らい、石堂が紙片をテーブルの上に置いた。


「なにそれ」

 もぐもぐと、口いっぱいに放り込んだから揚げを食べている悠里が、きょとんとしている。


「中洲の社の前に置いてあったやつ。ほら、愛花さんも言っていたでしょう?」


 翠はビールを喉に流した。小さな気泡が胃に流れ落ち、ほわり、と熱を持つ。


「ああ。紙に願いを書くんだっけ。ふたつあるの?」


 今度はローストビーフに手を伸ばしながら、悠里が言う。

 石堂は悠里に「早く帰れ」と言っていたが、この量は彼の分も絶対に入っている。


「ふたつ、あるのよ」

 呟き、グラスの半分ほどを胃におさめる。


「一願成就ならば、願いはひとりひとつ。であるならば、もうひとつは別の誰かのもの、ということですね」


 ぷしゅり、と音がした。瞳だけ動かすと、石堂はグラスも使わずそのままビールを口につけた。


「そもそも、なぜ一願成就の社がある、などと噂が?」

 のどぼとけが数度動いた後、石堂は翠に尋ねた。



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