第24話 におい

 数時間後、翠と悠里は総合病院の喫茶室にいた。


 ドーム型に作られた建屋内からは、中庭の様子が一望できる。


 天気は快晴だった。

 スプリンクラーが回転しながら水を放ち、それがきらきらと光を孕んで芝生に散る。


 待ち合わせ時間は11時。予定より30分早く着いたので、悠里とふたり先に席について名田の保護者を待っているところだった。


「お待たせいたしました」


 ウエイトレスが声をかけるので、視線を戻す。

 テーブルの上には、個性に欠けたアイスティーのグラスが、悠里の前にも置かれていた。


「ありがとー」


 悠里が笑顔で言うと、ウエイトレスも微笑んで頭を下げる。

 人懐っこいが、厚かましいわけじゃない。ちゃんと礼儀正しい子だ。


 ぶるり、と。

 テーブルの端に置いておいたスマホが震えた。


「ちょっとごめんね」

「どぞー」


 断りを入れて、翠はスマホを取り上げた。

 LINEメールだ。


 トーク画面を開く。未読のマークがついている名前を見て驚いた。


 亮太りょうた。元婚約者だ。


(なんだろう)


 訝しく思いながらタップをすると、『久しぶり』『仕事辞めたって聞いたけど、大丈夫?』『なにかあれば連絡して』と、みっつのメッセージがついていた。


 知らずに苦笑いする。

 きっと共通の知人から聞いたのだろう。美佳みか辺りだろうか。亮太は昔から仲間の面倒見がよかったし、翠になにか変化があればすぐに連絡を寄こしてくれる人だった。実際、翠がデビューした時も、一番に連絡をくれた人でもある。


「お姉さんは尊とあの家で暮らしてるの?」

 不意に声をかけられ、翠は顔を向ける。


 悠里はストローを取り出し、アイスティーのグラスに挿したところだった。ぐるぐると回すと大きめの氷がグラスの中でかちあい、涼し気な音を立てる。紅葉した葉に似た液体は、光をまといながら揺れた。


 返信はあとにしようと、スマホから手を離す。


「うん。二日前からかな。中洲のやしろからご神体を出したら、家に帰るけど……」

 言ってから、気が重くなる。


 そうだ。社は見つけたが、まだご神体を確認していないのだ。再度あの中洲に入るのかと思うとうんざりだ。


「それまでずっと尊と?」

「たぶん。一カ月をめどに、とはおっしゃってたけど……」


 一刻も早く片付けて家に帰りたい。

 住環境的には、絶対今住んでいる家なのだろうが、ワンルームの自分のアパートが懐かしい。


 翠はのろのろと、紙の包装からストローを取り出した。


「尊と付き合ってんの?」


 いきなり切り出され、「は?」と真顔で隣を見る。

 名田の保護者は向かいに座るだろうからと、悠里とは横並びに座っているのだ。


「つきあって……、ない」

 びっくりしたまま答える。


「そうなのかなーとか思ったけど。でも、あの尊が他人と生活してるからさ。なんか特別なのかと思って。ほら、お姉さん、結構特殊な体質だし」


 悠里は、ちゅう、とストローでアイスティーを吸い上げた。


「尊、めちゃくちゃ警戒心強いじゃない? まあ、いつなんどき死ぬかわかんないから仕方ないけど」 

 あはは、と陽気に笑う。


「それが意外に楽しそうに暮らしてるし」

「……楽しそう、かな」


 なんか訝し気な声が出る。


「そうだよ。そもそも尊って、誰かと一緒に寝るとかできない人だからね。それなのにお姉さん、尊の匂いついてるもん。かなり近くにいるんだな、って思うし」


「嘘……っ」

 慌てて自分の肩口に鼻先をくっつける。


 確かに昨日も、翠は石堂と一緒に寝た。

 だが、この場合の「寝た」は、性交渉をした、というわけではない。


 同じ部屋で。翠はベッド。石堂は床に直置きしたマットレスで、だ。

 ふと、脳裏によみがえるのは、自分が泣きながら彼にしがみついたことだ。


(え。なんか、匂いついてる?)


 まさか、あれしきで。

 ありえない。


 今日はワンピースだった。着る前にスーツケースから出してハンガーに吊っていたが、その時に家自体の匂いでも移ったのだろうか。たぶん、そっちだ。


 だが、悠里がおかしそうに笑った。


「普通のひとはわかんないよ。それぐらいのレベル。ぼく、先祖が蛇だからか、匂いに敏感でさ。だけど、お姉さんからも尊からも、昨日匂いしないし」


 愕然と隣の悠里に視線を向ける。

 彼は口をへの字に曲げ、やっぱり、がらがらとストローで氷をかきまぜた。


「ああいう系の匂いとか情って、色にも匂いにもなって見えるから、ほんとやになっちゃう。この前もさ、好きピが他の男の匂い振りまいてやって来るから、別れたところ」


 鼻の上にしわを寄せる。


「すんごい言いわけしてたし、誤解よぅ、とか泣かれたけどやってる段階で、もうだめだっつーの。あーあ。どっかにぼくだけを好き、って言ってくれる女の子いないかな」


「あれ? 女の子……、好き?」

 目をまたたかせると、悠里も驚いた顔で目を丸くする。


「すんごい好き。女の子」

「ごめんなさい。石堂さんが、性的嗜好が男性のシャーマンの話をしてた後に悠里くんが来たから……。てっきり」


「ああ、それさかきさん。ぼくはシャーマンじゃないよ。だいぶん薄くなっちゃってるけど、どっちかっていうと異形とか、そのたぐいだもん」

 なんでもないように言うから、理解がついていかない。


「だから、尊の張った結界もどきにも入れなかったでしょう?」

 くすりと笑う。そういえば、雷の夜に石堂が言っていた気がする。


『この家には、石堂と布士しか入れない』と。


 あれも、なんらかのDNA認証的なものなのだろうか。

 異形を入れなくするための。


 では、やはり。 

 あれは異形か?


 雷鳴に照らされ、葉を寄せ集めて人型をかたどった影。


(じゃあ……。あの男はどういうこと)


 ぞっとする。

 なぜ、あの男は研修施設に出入りでき、かつ、翠の安全を脅かそうとするのだ。

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