第15話 から
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ドライヤーで髪を乾かし終わり、翠は息をついて鏡に映る自分の姿を見た。
すっぴんの顔がそこにある。
もともとそんなに化粧もしないし、眉毛も整える程度なので、変化があるかというと、微妙だ。
ただ、この地についた時よりは大分血色は悪くなっている気がする。
鏡に顔を近づけ、意識して笑みを作って見せる。
ぎこちないが、だいぶん表情筋が戻ってきた。ついでに言うなら、握力もだ。
++++
中洲から逃げ出し、川を渡り終わるか終わらないかのあたりで、翠は腰を抜かしたのだ。
ざぶり、と膝から水に浸かり、そのまま這うようにして岩場まで進む。
途中からは石堂が翠を横抱きにし、驚いたことにその状態で土手を上がった。
車の側で下すと、長靴だヘルメットだを脱がされ、助手席に放り込まれる。
水に濡れて寒いのか、それとも、異質なものに触れて恐ろしいためか。
翠は、奥歯を鳴らして震えあがり、暑いだろうに石堂は車内温度を上げて、宿泊場所まで車を飛ばしてくれた。
『川に浸かって寒いでしょう。魔除けと……。マダニ確認のためにも風呂に入ってください』
車の中で石堂は何度も厳命した。
そのたびに、震えているのか頷いているのかわからない仕草で、翠は『はい』を繰り返す。
宿泊場所は、親愛コーポレーションが持つ研修施設だったらしい。
中洲のある川からは三十分ほどの場所だ。
鉄柵を開錠させ、がらんどうの駐車場に社用車を滑り込ませる。
車内のヒーターをがんがんにかけてもなお震え続ける翠を残し、石堂はスーツケースを抱えて一旦建物内に駆けていった。
その後、飛び出していった勢いのまま石堂は車に戻ってくる。
ぼたぼたと、まだ雫を垂らしながらもなんとか歩けるようになった翠を連れ出し、二階に誘導する。
そのまま浴場に放り込まれた。
バスタブにはすでにお湯が半分以上溜まっており、そこでも石堂は翠に命じる。
『シャワーだけで済まさないでください。バスタブに浸かって』
そう言って出て行ったあと、翠はかじかむ指でなんとか衣服を剥ぎ取り、かけ湯もせずにバスタブに浸かる。
たぷり、と湯は揺れて翠を包んだ。
その時、鼻腔をくすぐったのは、わずかなアルコールの香りだ。
(……え? 日本酒?)
湯の表面に鼻先をつける。りんごに似ているが、これは日本酒だった。湯に酒が混ぜられている。
ついで、翠はマダニのことを思い出した。
『湯に浸かれば、皮膚に食らいついているマダニは溺れ死にますから』
石堂の声が蘇る。
どこかに食いつかれていないか、とぎこちなく身体を動かしたとき。
バスタブの底についた掌が、ざらりと何かを捕らえる。
最初、小石か砂かと思った。
何度も転倒したし砂利の上に座り込んだのだ。きっと足か腕についていたに違いない。
だが視線を転じると、透明で淡いピンクや濃い紫色の粒子が見える。
摘まみ上げ、指先で擦るとあっけなく溶けた。黒い粒を近づけると、硫黄独特の匂いがする。
どうやら、岩塩らしい。
酒と塩。
これは翠でも知っている。魔除けだ。
++++
「なんとか……、大丈夫」
鏡の中の自分にそう言ってみる。
岩塩と日本酒の入れられた風呂が効いたのか。
それとも強引に気味の悪い場所から引き離され、湯に入ってリラックスしたのがよかったのか。
顔色をのぞけば、だいぶん元通りになってきた。スーツケースから引っ張り出したワイドパンツと、ティアードブラウスを身に着けた今は、カーゴパンツ姿よりも実年齢に近い格好だ。
翠はドライヤーのコンセントを抜き、元あった通りに戻す。
ごろり、と。
不穏な音が聞こえて、翠は鏡を見た。
背後ではさっきつっこんだ衣類や、風呂で使用したタオル類が、ドラム型洗濯機の中をくるくると回転していた。その音かと思ったが、はめ込み型のすりガラス窓の向こうは真っ黒だ。
ごろごろ、と不機嫌に空がうなっている。
一雨来るのかもしれない。
空は夕方だとは思えないほどに暗くなっていた。
翠はため息をつき、洗面所を見回す。
(研修施設っていうより、なんか別荘みたいね)
二階には寝室が四っつと、洗面所と浴室。トイレがあり、一階とは独立しているらしい。
石堂からは、着替えたら一階に下りてこいと言われていた。
(その前に、伯母さんに電話をもう一度……)
しようかな、と考えた矢先。
から、と。
雷じゃない。音が軽すぎた。
どちらかというと、車輪が回転するような音。
横開きの扉を滑らせるときの、戸車の音。
から
また聞こえる。
翠は真正面の鏡を見た。
背後に見えるのは、ドラム型洗濯機。
洗濯物が水と共に回転する、低いモーター音がするが。
から
この音は違う。
翠の目は鏡の中を満遍なく見る。
〝さっき〟までと〝いま〟の違いを見極めようとする。
から
音が、聞こえる。
翠の目はそれを捕らえる。
扉だ。
浴場と廊下を仕切る横開きの扉。
木目調のシートが貼られた板のような扉。
そこに。
指が、かかっている。
四本。
親指以外の四本。
皮膚が黒ずみ、爪の先に茶色いものが詰まった指。
それが。
ゆっくりと動く。
から
音を立て。
また少し、扉が開いた。
「………っ!」
翠は声にならない悲鳴を上げ、振り返る。
洗面ボールに腰のあたりを押し付け、扉を見た。
薄く開いた横開きの扉。
そこに。
指はない。
だが。
「……開いてなかった。副社長……、ちゃんと閉めて……」
口から呟きが漏れる。
浴室に押し込まれ『ちゃんと湯船につかって』と厳命したあと、石堂はぴたりと扉を閉めて出て行った。翠もそれを確認し、衣服を脱いだのだ。
「なんで……」
なぜ、開いているのか。
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