第6話 首領の帰還

 テントの中では老婆が一人、首領たちの帰りを待っていた。

 老婆は濃い紫色の、裾と袖の長い衣服を着ていた。立ち襟の下にはくすんだ白い色が重なっている。頭に巻いた白いターバンは年季を感じさせて、こちらもくすんでいた。ターバンを留める飾りには、鉄の糸に大きめなビーズがいくつも通され、下に垂れ下がっていた。

 老婆の目の前には火があり、鍋が煮えていた。中ではぐつぐつと緑色のシチュウが煮えている。年老いた手が黒いお玉をとってかき混ぜると、どろどろとしたシチュウが音を立てた。


「……」


 老婆の灰色の目が細くなる。

 なんだか予感がしていた。

 老婆は魔法使いではなかった。だが妙な胸騒ぎがあった。

 その胸騒ぎを打ち消すように、目の前で煮えているシチュウをかき混ぜる。それなのにシチュウは意味ありげに、混ぜっ返すたびに下の方から深い緑色が絵の具のように浮き上がってくる。まるで何かが起きる前兆のようだ。それが良い予感なのか、悪い予感なのかさえわからない。


 ――いったいなんだっていうんだい。


 何かが起こる。けれどもどっちに転ぶのかがわからないのだ。

 いったいこの予感は何なのか……。

 老婆はため息をつくように、またシチュウを混ぜっ返した。シチュウは何も語り返してはくれなかった。

 そこへ、外からバタバタと音がしてテントの入り口が勢いよく開けられた。

 ひげ面を晒しながら、男はずかずかと中に入ってくる。


「オババ!」

「なんだい、そんなにドタバタするんじゃないよ。シチュウをひっくり返したらどうしてくれるんだ」


 目すら向けずに、オババと呼ばれた老婆はシチュウを混ぜっ返す。


「シチュウなんてこの際どうでもいい!」


 オババは近づいてくる男にちらりと目をやった。


「なんだい。それとも列車の破壊に成功したのか」


 男はその質問には答えず、興奮気味にオババの耳を指さした。


「いいか、その耳が老いぼれていないのならばしっかり聞け」

「あん?」

「魔法使いが現れた」


 オババはうさんくさい目を男に向けた。


「夢でも見たのかい?」

「夢じゃあない! 俺だってこの目で見たんだ。何も無いところから氷を出した」

「バカ言うんじゃないよ。魔法使いはとっくに滅びて、この世にひとりだって残っちゃいないよ」

「そんなことは俺だって知っているさ! でも本当だ。全員がこの目で見たんだ」


 男は自分の目を指さしながらオババに迫った。

 そうしてすぐに離れると、その指先をオババに向けた。


「すぐに首領が帰ってくる。そうしたらすぐにわかる」


 男はそれだけ言うと、またずかずかとテントから出ていった。

 オババはその背を眺めながら、また静かになったテントの中でシチュウの煮える音を聞いた。


 いま、あの男はなんといったのだろう。

 魔法使いが現れたって?

 いったいぜんたい、何が起きたのかさっぱりわからなかった。いや、受け入れがたかったのかもしれない。お玉を持つ手は震えていた。

 そうして何度目かにかき混ぜた時、男が予言したように、すぐにテントの外が騒がしくなった。

 それは次第にテントに近づいてきて、やがて入り口がさっと開いた。

 開けたのは、虹色のターバンをした青年だった。獣に似た鋭い目が、僅かに興奮で笑っている。


「幻でも見たのかい?」

「いいや」


 その目に宿るものに、オババは身構えた。

 首領と呼ばれた青年は炉の前に腰を下ろしてあぐらをかくと、意味ありげにオババを見返す。


「魔法使いは生き残ってた」


 もはや動揺を隠しきることはできず、思わずお玉を取り落とした。


「首領。あんたまでそんんなことを――」

「魔法使いが生き残ってたんだ!」


 間違いなく断言した。

 もはやこの事実は覆しようもなかった。


「……いったい、どこに?」

「列車に乗っていた」


 首領はオババが取り落としたお玉を手に取ると、適当にシチュウを掬った。少しだけ口で冷ましてから、煮えたったシチュウをそのまま口につけた。煮込まれた野菜が焼けるほどに喉を潤す。ぐいっと袖口で口元を拭うと、首領はまっすぐにオババを見て言った。


「間違いない。ありゃあ魔法使いだ。何も無い所からでかい氷を出したんだ。そのうえ、そいつをこっちに飛ばしてきたんだぞ。何も使わずにだ。指先で命じただけでだ。あんなの、魔法以外のなにものでもない」

「なんということだ……」

「しかもあいつ、直接はやってこなかった。足下を狙って追っ払ってきただけだ。……ずいぶんと余裕な事だ」


 燃え上がるような首領の目を見ながら、オババはため息をついた。


「それで、どうするんだい」

「決まってる」


 首領は立ち上がった。その顔には笑みが浮かんでいる。

 踵を返してテントの幕まで歩くと、勢いよくテントの入り口をまくった。

 そこにはずらりと、部族の全員が並んでいた。全員が首領の言葉を待っていた。


「いいか、お前ら。その耳をかっぽじってよぉく聞け――魔法使いが、再びこの地に現れた」


 その言葉に、うずうずと全員が耳を傾ける。

 指先を高く掲げ、やがて遙か草原の向こうにある終着駅へと振り下ろす。


「狙いはあの魔法使いだ!」


 おおおおおっという雄叫びが、周囲に獣のようにこだました。

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