第2話 「陽菜の苦悩」

 私とお兄ちゃんは、多くの時間を一緒に過ごしてきた。



 お兄ちゃんは、しょっちゅう熱を出す私のために、甲斐甲斐しく看病してくれた。

 私が幼い頃には絵本を読んでくれたし、中学生の頃は、誰も知らないような面白い雑学をたくさん披露してくれた。


 即席のマジックも見せてくれてた気がする。

 同級生と遊べなくて悲しんでる私を励ますように、いつも笑わせてくれた。


 それだけじゃない。

 お兄ちゃんは、私の分までお母さんを支えてくれた。

 留守番から家事まで、家のことは何でも率先して取り組んでくれた。


 きっと、誰の目から見ても、お手本のようなお兄ちゃんだったのだろう。



 ……でも。

 私は、そんなお兄ちゃんが苦手だった。



 友達と遊びに家を出る様子もなく、受験勉強の時間を割いてまで私の看病をする。

 私が熱を出してなくても、暇さえあれば「最近、学校はどう?」とか「体調はどう?」って聞いてくる。

 鬱陶しいって言って突き放しても、絶対に私のことを疎かにしない。

 何をするにしても必ず付きまとってくる……。


 別に、監視されてるとか、窮屈だって思ってるわけじゃないよ。

 過剰に何かを制限されることはなかったし、私が羽目を外した時も、お母さんに言わないでおいてくれたし。


 なんなら、「こういうのはどうかな?」って、ちょっとした面白い要素やスパイスを追加してくれる。

 室内で遊ぶことが多かった私にとっては、有難い存在だった。

 それは間違いなかったよ……本当に。





---



「えっと、今までお世話になりました」


 靴を履き終えると、お兄ちゃんはそう言って笑った。

 隣には、真新しい黒色のキャリーバッグが置かれている。


「何言ってんの。またいつでも帰ってきなさいな」

「そうだぞ」


 お父さんとお母さんの言葉を受けたお兄ちゃんは、「ありがとう」と目尻に涙を浮かべた。


 それから少し見つめあった後、3人は別れを惜しむように抱き合った。


 お母さんはともかく、お父さんは海外出張でほとんど会えてなかったのに……お兄ちゃんが家を出るのは、寂しいんだ。

 よく分からない感覚だなぁ。


 それにしても……。

 改めて、お兄ちゃんを見る。


(本当に、行っちゃうんだ)


 いつも顔を合わせていたお兄ちゃんが、明日からはいない。

 ……まだ実感はないけど、そう思うと、胸がきゅっと締めつけられる。


 私の視線を感じたのか、ふと、お兄ちゃんと目が合った。

 これで最後なんだし、私も何か言った方がいいよね。


 何を言おう。

 ……お兄ちゃんが、幸せになれるような言葉がいいよね。

 うーん。


 悩んでいると、鼻先がつんと痛くなる。

 やばい、泣いちゃいそう。

 早く何か言わなくちゃ。


「もう、私に構わなくていいから」


 あ。

 声が震えないように気をつけたからか、少し投げやりな言い方になっちゃった。


 もう1度、お兄ちゃんの顔を見る。

 今度はお父さんとお母さんとも目が合った。


「陽菜、なんて言い方をするんだ」

「え?」


 いさめるように、お父さんが言った。

 すかさず、「いいんだよ」とお兄ちゃんが笑う。


「……よかった。もう、付きまとわないよ」


 そう言って、お兄ちゃんは家を出た。

 お兄ちゃんの突き放すような言葉を受けて、初めて自分の発言の意味に気づいた。


 違う。

 そんなつもりで、言ったんじゃない。


 すぐに後を追いかけようと思った。

 だけど、身体が思うように動かない。


 お兄ちゃんの無理に笑った顔、

 傷ついたことを隠そうとした表情を、

 もう1度、見る勇気が出なかった。



 ソファに座って、ため息を吐く。

 ……また、今度言えばいいか。

 お盆か年末には帰ってくるだろうし、その時に「あの時はごめん」って言えばいい。

 その頃になったら、お兄ちゃん、ほとんど忘れてるだろうし……適当に受け流してくれるはず。

 うん、我ながら名案だね。


 そう思った私は、お父さんとお母さんに「後で電話して謝りなさい」と何度言われても、断り続けた。

 最初は説得しようとしてきたけど、「ちゃんと顔を見て謝りたいんだ」と言うと、渋々納得してくれた。


 電話なんかより、顔を見て謝った方がいいに決まってる。

 お兄ちゃんが遠くに行っちゃったから、ちょっと時間はかかるけど……そっちの方が正しいはずだ。


 この選択に、後悔はなかった。





 だけど、お兄ちゃんは帰ってこなかった。


 落ち込む私を見て、お母さんは「来年には帰ってくるんじゃない?」と励ましてくれたけど、結局お兄ちゃんは2年経っても帰ってこなかった。


 その時、私は気づいたんだ。


 別れる前、お兄ちゃんは「よかった」って言ってた。

 傷ついたように見えたのは気のせいで、単純に、私から解放されたのが嬉しかったのかもしれない。

 ……だから、私がこの家にいるうちは、もう帰って来ないのかもしれない。


 お兄ちゃんが私に構わないのは、私自身も望んでたことだ。

 それなのに……なんでだろう。


 胸が、ちくりと痛んだ。



---



 受験日が1週間後に迫ってきた。

 毎日12時間の勉強は当たり前。

 身体もかなり丈夫になったから、自己管理を怠らなければ病気になることも、熱が出ることもない。


 受けるのは国立の大学。

 成績が良かったから、少しでもいい大学に行こうと思ったんだ。

 お母さんも支えてくれてるし、お父さんも海外から参考書や身体にいい食べ物を送って、応援してくれてる。


 なんとしても、2人の期待に応えてみせるんだ。



 ピピピピッ



 アラームが鳴る。

 休憩の合図だ。


「ん~!」


 伸びをすると、欠伸も一緒にでた。

 暖房がよく効いてるから、すぐに眠気がくるんだよね。


「窓でも開けようかな……」


 そんなことを呟いた時のことだった。


「陽菜、お兄ちゃんが帰ってきたよー!」


 1階からお母さんの嬉しそうな声が聞こえてきた。


「え!」


 思わず声をあげる。

 お兄ちゃんが、帰ってきた……?


「お母さん! お兄ちゃんが帰ってきたってほんと!?」


 転げるようにして階段を降りると、お兄ちゃんと目が合った。

 スーツを着てるからか、大人っぽい。


「お兄ちゃん!」


 喜びのあまり、お兄ちゃんに飛びつく。


「ぐえっ」


 情けない声をあげながらも、お兄ちゃんはしっかり受け止めてくれた。


「そんなにはしゃいで、大丈夫なのか?」


 心配そうに眉を下げて、お兄ちゃんが言う。


「うん、私もう元気だから!」


 私の返事を聞くと、お兄ちゃんはお母さんと目配せをした。

 ちょっと! そこは本人の言葉を信じるべきでしょ!


 あ、でも昔はよく「大丈夫だよ!」って無茶しては高熱を出してたっけ。

 ぐぬぬ……。

 おのれ、昔の私。

 よくもやりおったな……。

 これじゃあ、文句言えないじゃん。


「お兄ちゃん、こっち座りなよ!」

「うん」


 とりあえず、ソファに案内してみる。


 どうしよう。

 さっそく、今から謝る?

 ああ、でも覚えてなかったらどうしよう。


 あの頃は忘れてることを望んでたけど、いざ「覚えてないな」なんて言われたら、ずっと気にしてたこっちが恥ずかしい。


 そうこうしてると、お母さんが先に声を掛けた。


「お昼ご飯は食べてきたの?」

「いや、まだだよ」


 あ、そうそう。

 まずはね、ご飯を食べなきゃね。

 大事な話は落ち着いてからじゃないと。


「なら雪路の分も作るね」

「ありがとう。ごめんね、急に押し掛けて」


 そう言うと、お兄ちゃんは苦笑した。

 ……なんか、凄く疲れてるみたい。

 目の下には隈があるし、スーツもよれよれだ。

 お仕事、大変なのかな。


「何言ってんの。あんたは家族なんだから、いつでも帰ってきなさいな」

「そうだよ! ずっと家にいたっていいだからね!」


 そう言うと、お兄ちゃんは私の顔を見て、懐かしいものを見るかのように目を細めた。

 不思議に思って、私もお兄ちゃんを見つめる。


「家族……」


 ぽつりと呟いた後、お兄ちゃんの目から涙が溢れた。


「……おかしいな」

「お兄ちゃん、大丈夫……?」


 どうしたんだろう。

 何か、辛いことでもあったのかな。


 こういう時、どんな言葉をかけてあげたらいいんだろう……。


「おかえりなさい、雪路」


 そう言ってお母さんが微笑むと、お兄ちゃんがもっと泣いた。


「ただいま」


 そう言うと、お兄ちゃんは笑った。

 話の内容がよく分からないけど、お兄ちゃんの笑顔は、昔のままだった。





--



 お昼ご飯を食べながら、私達は色んなことを話した。


「いつまでここに居られるの?」


 お母さんが何気なく聞くと、お兄ちゃんは「ごめん、日帰りなんだ」と言った。


 なんてことだろう。

 これじゃあ、お父さんがお兄ちゃんに会えない。

 いや、そんなことは重要じゃなくて。


(は、はやく謝らないと……!)


 焦ってご飯をかきこむと、「陽菜は食いしん坊だな」とお兄ちゃんに笑われた。

 顔から火が出た。





 お昼ご飯が終わると、お兄ちゃんはお母さんと話し始めた。

 きっと、話したいことがお互いに沢山あるんだ。

 2年も会ってないもんね。

 よし、私は部屋で作戦会議でもしよう!


 部屋に戻ると、暖房が私に眠気を思い出させた。

 大丈夫。

 安心して、お兄ちゃん。

 私は、こんな眠気に屈する妹じゃないよ。


 使い終わったノートを取り出して、端っこに「候補」と書く。

 それから、いくつか案を挙げてみた。




「候補」

・帰る直前にさらっと謝る

・散歩に連れ出して謝る

・お母さんに頼んで代わりに謝ってもらう




 ……まともな案が2つしかない。

 うーん。

 もっといいのはないかな。


 一生懸命に捻りだそうとするものの、全然思いつかない。

 おかしいな。私、頭は良いはずなんだけど。

 これが天才と努力家の違いってか!

 ……いやいや、ふざけてる場合じゃないって。


 ため息を吐く。

 さらっと謝るのもどうかと思うし、散歩に誘うしかないかな。

 なんか緊張するけど。

 外もまだ寒いけど。

 お兄ちゃん、疲れてるかもしれないけど。


 そもそも、あの日、お兄ちゃんは「よかった」って言ったんだよね。

 もしかすると、別に謝ることじゃないんじゃ……。


 ああっどうしよう。

 どんどん案を採用できない、しない理由が浮かんでくる。

 私の脳は悪い方向にひらめき力を使いすぎだよ。

 お兄ちゃんがどう思ってたとしても、私が気にしてるんなら謝るべきなんだってば。


 頭を抱えていると、誰かがドアをノックした。

 お母さんかな?

 なんて思いながら「はーい」と返事する。


 少しして、ドアが遠慮がちに開いた。


「……ちょっと、いいかな?」


 目を見開く。

 入ってきたのは、お兄ちゃんだった。



✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼



次回 2023年1月18日18:00

第3話 「兄妹」



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