第1181話、にげる
「お前、もう言葉を覚え—————いや、違うな?」
思わずもう覚えたのかと聞き返したが、少しおかしな事に気が付く。
言葉を理解して来た、し始めて来たというなら、余りにも唐突が過ぎる。
シオですら意味を理解するまでに、早過ぎはしたものの段階は有った。
「お前、もっと前から言葉が解っていたな?」
「きゅ。すこし、わかる、なってた」
やはりそうか。どの辺りからか解らんが、喋れんふりをしていた訳だ。
その理由は何となく解るが、それよりも気になるのは喋った事か。
何よりもシオにではなく、あれだけ怯えていた俺に話しかけたのは何故だ。
「何故解らないふりを止めた」
「・・・ヨイチ、ずっと、こわかた。かまれて、きられて、さされて、いたかた・・・しにたく、なかた」
・・・喋る事は出来るようになったが、会話が出来るとは程遠いな。
伝えたい事が纏まっておらず、俺には何が言いたいのか良く解らん。
ただそれでも解る部分は『死にたくなかった』という所か。
ヨイチが生まれてすぐ、何故研究所で暴れたのかは知らん。
だがその後のコイツの人生は、周囲は敵しか居なかったはずだ。
野の獣と魔獣は当然、人間もこいつを討伐対象を見做していた。
だから死なない為に努力した。殺されない為に周囲を殺した。
生きる為に殺して食い続け、そうして俺達と出会ってしまった。
そして殺されない為に、必死に殺されない方法を考え、大人しく従ったんだ。
「ほんとは、にげる、おもた。ミク、ねーちゃ、こわい。すごく、こわい。だから、にげる、おもた。にげないと、ころされる、おもた。だから、わからない、した」
「・・・逃げる機会を伺う為に、馬鹿の振りをしていた、か?」
正直これに関しては予想通りだ。予想していたからこそ、黙っていた理由は問わなかった。
俺と戦って勝ち目はなく、力を付ける為の行動もさせて貰えない。
となれば何処かで隙を突いて逃げる。それが一番現実的な選択肢だろう。
その為には獣の振りの方が良い。賢く策を練る様子など知られない方が良い。
この判断をする時点で利口さが良く解るが、だからこそ本当に良く解らない。
「・・・でも、にげたく、ない、おもた」
そう思っていると、ヨイチは弱弱しい声でそう告げた。
黙っていた理由とは、正反対の感情を。
「しお、ねーちゃ、いる、こわく、ない。にげる、あし、うごかない、なた。ついてく、うれしい。ねーちゃ、いっしょ、いい・・・ヨイチ、ここ、いたい」
「・・・ああ、そういう事か。俺に話しかけたのはそういう事か」
馬鹿の振りを続けず、最初にシオに話しかけるでもなく、俺に話しかけた理由。
つまりはコイツは、俺が未だに警戒をしている、という事を理解していた。
言葉に出さずとも些細な態度で、今だコイツを仲間と思っていない事を。
シオが面倒を見ると言うから任せているだけで、弟などと思っていない事を。
だから、許可を求めているのだろう。ここに居させてほしいと。
シオについて行くにしても、最終的な決定権が俺に有ると判断して。
「勝手にすれば良い。シオに付いて行きたいと言うなら、俺が口を出す理由はない。既に許可を出した事なんだからな。むしろ逃げるなら殺していただろうよ」
俺はコイツの扱いに悩んでいたし、シオの判断は俺にとっても助かる。
なので別に俺に許可なんざ必要は無いが、それでは安心出来なかった事だろう。
常に『最悪の場合は殺す』と考えている奴が傍に居るんだからな。
「だがそれと俺の警戒は別の話だ。俺はまだお前を信じていない。俺の警戒を解きたいのだろうが、解かせたいならこれからの態度で示してみろ」
「・・・きゅぅ?」
俺の返答を聞いたヨイチは、少し悩んで首を傾げる。
言葉が解る様になったと言っても、本人の言う通り解らない部分も多いのか。
「シオの傍に居たいなら好きにしろ。だが俺はお前を見張り続ける。お前が本当に問題無いと思うまではな。これで解るか」
「きゅ・・・わかた。こわい、けど、わかた・・・きゅぅ」
こいつは成程シオと同じなのだろう。この学習能力の高さは同じなのだろう。
だがコイツとシオの決定的な違いは、相手の油断を誘って殺せる事だ。
人を騙す事を、コイツは出来る。嘘を吐ける。演技が出来る。
人間相手に『タスケテ』と言って切り抜ける狡さがある。
ならコイツがどれだけしおらしい事を言おうと、俺はまだ信用出来ん。
俺の返答にショボンとしているが、それすら演技かもしれんしな。
「ただ大人しくして居れば、最低限の面倒は見てやる。一応弟だからな」
それでも、敵意を持っている訳じゃない。従っている内は警戒程度しかしない。
そういう意味を込めて告げたが、ヨイチがどこまで解っているかは解らない。
だがそれで良い。解る様になった時に、コイツがどう判断するかが肝心だからな。
それに・・・死にたくない。生きたい。その気持ちは良く解る。
何よりも選べない生まれが余りに酷く、その後の状況も過酷が過ぎる。
だから俺の敵にならない限りは、俺がコイツを殺す事はないだろう。
すべてはコイツ次第だ。今後の行動次第だ。
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