第6話 ミツバチ対処法
廊下にたむろする猫たちが、熱心に床を見つめていた。
ウィルはその様子を何気なく覗き込んだ。猫たちに取り囲まれた床の一点で、もぞもぞと黒い点が動いていた。どうやら迷い込んだハエが一匹、床の上に小さな染みとなって動き回っているようだった。でかくも小さくもない、ごく普通のよく見るハエだ。どこかの扉が開いたときに入り込んできたのだろう。不快な羽音を立てながらおぼつかなげに歩き回り、かといって飛び立つこともできず、哀れにも猫たちの玩具にされていた。猫たちはそんなハエの心境も知らぬままに、ときおり前足でちょっかいをかけては弱っていく様子を興味深げに見つめていた。
館のなかに虫が入り込むのはよくあることだ。
本来は虫だろうがなんだろうが元の世界に戻した方がいいのだろう。自分のように記憶がすっぽりと抜けて帰れないというのならばともかく、他の世界に迷い込んでどんな影響を与えるかわからないのだから。だがたいていの虫はこの寒さにやられてしまう。いくら館のなかは暖かいといっても限度がある。それはもう、虫にとっても運が悪かったのだ。小さなものなら一匹や二匹、帰さなかったところでどうということもない。だいたい、ここで哀れな玩具を弄っている猫たちは、自由気ままにあちこちの世界を旅して回っているのだから。そんな猫たちには小さな吸血虫がついているし、そいつらはノミ食いの生物がエサとして食っているからあまり気にする事もない。
同じように。
どこかの世界に迷い込み、無事でいられるかはわからないのだ。
「……」
ウィルは無言で視線を逸らした。
そのときだった。
遠くの方からバタバタと足音が二つ分、近づいてくる。
それが明確に自分に近づいてきていると気付くや否や、ウィルは逃げるべき場所を探った。だが遅かった。
「ウィル!」
「ウィル君!」
「ぐえっ」
濃紺色のマントを後ろに思い切り引っ張られ、ヒキガエルのような声があがった。
「やめろマントを引っ張るな! 首が絞まる!」
感傷的な気分はあっさりと吹き飛ばされ、ウィルは双子にマントを引っ張られながらどこぞへと引きずられる。
猫たちはといえば、そのうちの一匹が弱ったハエを肉球で取り押さえているところだった。
「大変なのだわ!」
「大変なんだよ!」
「左右から同時に話すな!」
こんなときだけステレオで話さないでほしい。
ウィルは床に座り込んで、頭を掻く。もうこうなると、腹をくくるしかないのだ。
「で、なんだ一体」
「ボイラー室に蜂が入ってきちまったんだよ」
カナリアが言った。
「蜂ぃ? そんなことでいちいち騒ぐなよ……」
「結構でかいやつ!」
「でかいって、部屋に詰まってて壊れそうとかそういう事じゃないだろうな」
「さすがにそんなにはでかくない」
とりあえず竜ぐらい巨大なわけではない、ということがわかった。
「だいたいボイラー室って……、どこから入り込んだんだ。中庭からか?」
シラユキが首を横に振った。
「中庭にいるやつじゃなくて、『どこか』から入ってきちゃったらしいのよ」
「ああ……」
この場合の『どこか』は場所の話ではない。いつの間にか開いた扉のその向こう、異界という意味だ。
「んでさ、お前のあれでなんとかならないかと思って。ほら、あの……魔法で命令するやつ」
「さてはお前、なにひとつ覚えてないな?」
とはいえ言いたいことはなんとなくわかってきた。
「虫ってだいたい寒さに弱いし、動かなくなれば向こうに帰せるかなって」
「虫くらい叩き潰してもいいんじゃないのか?」
「えー。なんか可哀想だろ」
ウィルはため息をついた。
気怠げに立ち上がると、頭を掻く。
「とにかくなんとかしろってことだろ」
「さすがウィル! 話がわかる!」
これ以上この二人と言い争っても結局は平行線だからだ。どう足掻いても二対一になるのが始末が悪い。それに、居候なのだから虫くらいはなんとかしてやるか――という仕方なさもあった。
「それじゃあ私は何か他に使えるものが無いか探してくるのだわ」
「おう、頼んだぜゆっきー!」
最初から探せよ、とは思ったがそれ以上特に何も言わなかった。
ボイラー室は地下の一角にある。
位置的に、建物としては独立しているような気がした。
ウィルはボイラー室のことを、給湯や全館暖房を担う装置のある部屋――と理解していた。とはいえ館自体が勝手に風呂だのキッチンだの増やすのだから、そのあたりどうなっているのかさっぱりわからない。しかし、そうした装置がそこにあるからには仕方が無い。あるからにはあるとしか言いようがないのだ。
扉の前に立ち、「ここか?」と尋ねる。
「うん、音とか気をつけろよ」
「おう」
ボイラー室の扉をそっと開けた瞬間、ウィルの目の前に、ウィルと同じくらいの大きさのミツバチが現れた。真っ黒な目に、もふもふとした毛。まるで、尋ねた先で人間が出てきたような空気で。
バァンと音を立てて即扉を閉める。
沈黙が降りて、廊下に扉を閉めた音が響いた気がした。向こうから一斉に蜂の音がする。
「でかい音出すなよウィル!」
「いやその前にでけぇわ!! どっから連れてきた!?」
「ボイラーの調整してる最中に気がついたら入ってきてたぞ」
「気付け!?」
人くらいの大きさのミツバチが入ってきたらさすがに気付いてほしい。
しかも一匹や二匹ではない。カナリアが発見してからすぐにボイラー室の扉を閉鎖してすっ飛んできたと考えると、向こうの扉は開けっぱなしになっているはずだ。その間に一体何匹のミツバチに侵入されたのか考えたくもない。
「でももふもふだったな!」
「もふもふが問題じゃない! だいたいなんだ今のは。俺の身長くらいあったぞ!?」
「浮いてたからウィルの身長は無いと思う」
「そういうことじゃない!」
確かに竜レベルででかいわけではなかったが、かといって人レベルの虫もでかいといえばでかい。確かにこれは双子が対処できないのも無理はないと思った。かといって自分が巻き込まれるのも理不尽すぎると思っていたが、少なくとも自分の住んでいる場所でこのサイズの虫と同居するつもりもない。
「たぶん、女王蜂かなんかが一緒に迷い込んだんだと思うけど、たぶんそれにつられて入ってきたんじゃねぇかな。それがボイラー室にいつの間にかいっぱい居て」
「だからなんでそんなとこから繋がるんだよ面倒くせぇなあ!?」
廊下に繋がっても面倒だが、わざわざボイラー室に繋げることもあるまい。相変わらず屋敷の考えることはわからない。いや、わかってたまるか、と自分に言い聞かせる。
「ボイラー室、あったかいからなあ」
「クソッ、だからって結構暑いだろここは。そんなとこに入ってきたら普通の虫だったら死んでるだろうが」
ウィルはそう毒づいてから、でかいから死なないんだろうな、という結論に達した。深く考えたら負ける気がする。
「……とりあえず、冷気で一旦室内の温度を一気に下げる。もしもあいつらに効いたら、一旦ボイラーを切ってこい。その間に対処するぞ」
「わかった。さっきの音でちょっと殺気だってるかもしれねぇけど」
「そういうとこだけ普通の虫みたいなツラしやがって! ……こりゃ真面目にやるしかねぇな」
指先に魔力を籠めつつ、少しだけ扉を開ける。その途端に、耳障りな音が脳内に響き渡った。
「ぐぬぬ……!」
ただでさえ虫の羽音が響くのに、それがボイラー室じゅうから響き渡るような気さえする。もう少し中の様子を見ようと開けると、その巨体が隙間から覗かせた。
「うわー! ウィルあんまり開けるなよ! 逃げ出すぞ!」
「くっそ、なんでこんな入ってきてんだよ!」
無理矢理隙間から指先を向ける。
その間にも巨体が僅かな隙間から脱出しようと――いや、領土を広げようとしてくる。
「来たれ――汝は冬の使者……」
言葉に魔力を乗せ、形にしていく。指先に集った魔力が渦巻き、冷気と化していく。その場の空気さえ凍えそうな冷気に。
「――アイスストーム!」
冷気を纏った風を、一気に部屋の中へ叩きこむ。
バタバタと忙しなかった虫たちは次第に静かになっていき、じっと耐えるように縮こまった。ドアから出てきそうになっていた個体でさえ、その動きをとめていった。
ウィルは渦巻く冷気を持続させながら、ゆっくりと扉を開けた。
ボイラー室の中は三十匹か四十匹ほどのミツバチに占拠されつつあった。異界と繋がった扉もすぐに見つかった。扉は六角形で、開けっぱなしになっている。そこまで入り込んだ冷気によってほとんど動かなくなっていた。
「うわ……」
まさに異界のミツバチの巣の中に扉が繋がったらしい。巣の中の小さな空間に開いてしまったらしく、甘ったるい匂いが充満している。げんなりした。ウィルは近くにいたミツバチを引きずっては向こうに返す。正直、ここまで肉体労働になるとは思ってもみなかった。実際、カナリアのほうが作業速度が格段に速い。
「せめてもっと可愛らしい大きさならな……」
「えー? でかい虫って可愛いだろ」
「お前の感性はちょっとわかんねぇ」
「二人ともー!」
ガラガラと台車の音がする。
シラユキが何か持ってきているらしい。
「蜂蜜入れるものいっぱい持ってきたのだわ!」
台車の上の段ボールには、バケツや桶が重ねられて積まれている。
「なに持ってきてんだ!?」
使えるものってそういう意味かよ、と少し呆れていると、カナリアは真っ先にバケツをひとつ手にする。
「よしじゃあ入れようぜウィル!」
「お前らこんなときだけ……」
本当にそれでいいのかと思ったが、もはや逆らえなかった。
ミツバチの巣を少々――たぶんあの大きさなら少々だと思う――頂いたあと、扉を閉めた。
扉は完全に閉められたらしく、目の前で壁と同化して消えていった。
「いやー、大量大量!」
中身の詰まった台車を押しながらカナリアがほくほく顔で言う。
ウィルも中身の詰まったバケツを持たされながら、廊下を歩く。これを一階までどうやって運ぶのかと考えると頭が痛い。そのうえ全員ハチミツまみれで、甘ったるい匂いが漂ってくる。ウィルはくらくらした。
「どうすんだこんなに」
「あとで圧搾するからウィル君も手伝ってね」
「……」
「……てつだってね?」
シラユキが笑顔で下から見上げてくる。
まだこの匂いと付き合わなければならないかと思うと、ため息のひとつもつきたくなる。
「ところでこれ、定期採取できたら売れてたんじゃないかしら」
「やめてくれ」
死んだような目で、ウィルは言った。
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