46
久方ぶりに歩く城内に、アーデルハイトはとくに感想を抱かなかった。
十四の頃からここで過ごしてきたが、だからといって懐かしさもない。ここで過ごした日々は、アーデルハイトにとって思い出を積み重ねるようなものではなかった。おそらくそれはノイラート侯爵家の別邸にしても同じこと。
もしかすれば、ラニーユと会っていた庭の東屋を見ればまた少し違うかもしれないが。
「人間というのはぞっとするほど弱いな。なぜあれほどまでに恐れていたのか不思議に思うくらいだ」
「ひとりひとりの力は大したものではございません。人間の恐ろしさは陛下もご存じのとおり、数で襲い掛かってくるところです。何百、何千と殺した数が、何万、何百万となって返ってくる。彼らが魔族を滅ぼそうと思えば、最後のひとりになるまで止まることはない」
「あの日、お前を拾わなければ、私は悠久の時を憎悪に蝕まれていただろうな」
銀色の重たい鎧を着こんだ兵が、イリシャ率いる兵によって切り裂かれる。
見慣れていたはずの城の壁にはべっとりと血がこびりつき、まるで地獄のような様相を醸していた。広い廊下の隅に、また死体が積み重ねられる。どうせ後の掃除はバルデル伯爵がやるのだ。いかに城内が汚れようと、アーデルハイトの知ったことではない。
帝都の外では親皇帝軍と反乱軍がいまもぶつかり合っている。残してきたハッセルバム兵も混じっているが、なにか下手なことでもない限り彼らが死ぬことはないだろう。
「陛下、青薔薇様、ご主人様。ご報告いたします」
「言え」
「指示通り、貴族らしき人間はすべてひと部屋にまとめました。青薔薇様がおっしゃっていた皇族用の脱出通路とやらも入り口を破壊しました。人が通った形跡はなかったので、皇帝はたぶんまだどっかにいます」
有翼種族の若い彼はクリセルダを前に緊張しているようだった。
アーデルハイトの配下たちは言葉遣いを含めた教育を施しているが、側近たちの部下はそうもいかない。彼なりに丁寧な言葉遣いを心掛けているようだが、使い慣れていないためかどこかたどたどしい。
イリシャのことは嫌いではないし、どころか気に入ってさえいるが、自身の配下すべてにご主人様と呼ばせる嗜好は、アーデルハイトには理解しがたい。彼ら自身もまた、自らのことを『下僕』と呼ぶ。
「貴族たちがまとめられた部屋に案内してもらえる?」
「はいっ! こっちです!」
「青薔薇、威圧してやるな」
貴女に言われたくない、という言葉を飲み込んで頷けば、空気を読まないイリシャに笑われた。
イリシャら有翼種族に抱えられ、空からの入城を果たしたわけだが、出会う騎士すべてを惨殺するという凄惨な光景に耐えられなかったらしく、バルデル伯爵は先ほどから青い顔をして黙ったまま。威厳もなにもあったものではないので、マーティアスに会うまでになんとか持ち直してほしいものである。
バルデル伯爵は当初、アーデルハイトの予想通り、敗戦の責任をマーティアスに押し付け退位を迫る予定だった。
アーデルハイトはそれを反乱という形で『後押し』してやったのだ。第一皇子、ベルツがマーティアスの血を引かぬ子だという素敵な札を持っているのだから、それを切る機会としては今が最適であろう。ベルツ以外の皇族を殺しつくす、とてもいい機会なのだから。
アーデルハイトが死したのち、ソアラはさらに男児を出産していた。公的にはベルツも、その第二皇子もマーティアスの子であるが、扱いにはどうやら大きな差があるようだった。
あれだけ堂々と不義を働かれたら、いくら恋に盲目となろうと、流石のマーティアスも疑っていたのだろう。疑いながらもソアラを愛し続け、ベルツの神聖力の紋を教会に確認しなかったのはどういう心境なのか。心のどこかが欠けたアーデルハイトにはわかりようはずもなかった。
有翼種族の彼に案内されるままにたどり着いたのは、舞踏会などでも使われる大広間だった。その間にも死体は積み重なり、いまも城内のいたるところで誰かが死んでいる。
クリセルダに促されるままに開かれた扉の奥。両手両足を縛られ、無造作に転がされた貴族たちがいた。なかには城の使用人らしき者もおり、貴族と区別のつけられなかった兵に連れてこられたのだろうと見当がつけられる。運がよければ生きられるが、必ずしも生き延びることが幸運だとは限らない。
恐怖で泣き叫ぶ夫人や、唾をまき散らしながら怒り狂う貴族。アーデルハイトにとっては、死体が転がる廊下よりも地獄であるように感じた。
「黙れ」というクリセルダのひと言に、それらの声がぴたりと止む。気を失っている者も多い。
荷物のように転がされた貴族のなかに、見覚えのある顔を見かけた。クリセルダに止められることもなかったので、カツカツと靴音を鳴らして歩み寄る。
「ごきげんよう。お父様、シャロディナル」
「アーデルハイト……!」
「……お姉様の仕業でしたか……国を内部から狂わせ、戦争意識を高める。はは、たしかにあなたのやり口だ」
アーデルハイトとよく似た顔の青年が、全てを諦めたような顔をして口元を歪める。
バルデル伯爵に乗せられて反皇帝派に協力していたにも関わらず、ここで捕まっている。ただ良いように使われただけだと今更気づいたのか。愚かなこと。
「愛しいシャロディナル。そんなに唇を噛んだら傷になるわよ。わたくしを殺せるだけ賢い子なのだから、もっとうまくやらないと」
「相変わらず気色の悪いことをおっしゃる……死んでなどいないではありませんか。随分とそっくりな影を見つけたものです。ぜんぜん気づかなかった」
「影などつかっていないわよ。わたくしはたしかに首を落とされましたが、神の采配によって首の皮一枚つながっただけ。ほら」
そう言ってひょいと首を持ち上げると、捕虜の貴族から阿鼻叫喚が広がった。後ろにいたバルデル伯爵の「ひっ!」という悲鳴も聞こえてきたが、見せていなかっただろうか。首がとれることについて、ハッセルバムでは何も言われないため、つい失念してしまう。
面白そうなので、ついでに魔力で偽物の血をつくり、だらだらと垂れ流す演出もつけてやった。
ハッセルバムで過ごすうちに気安い冗句も言えるようになったのだと言うつもりだったのだが、笑ってくれたのはクリセルダとイリシャだけである。
「あら、いまのはデュラハンジョークと申しまして、笑うところですよ、皆さま」
「わはははは! やめろ青薔薇、笑いすぎて死ぬぞ、私は!」
「陛下に死なれたら困りますね。やめます」
怯えてガタガタと震える父と弟。また一歩近づけば、アーデルハイトの視界にすらない貴族たちから悲鳴が上がる。もはや言葉にすらなっていないそれらは、恐怖が突き抜けて狂ってしまったのかと思うほどだった。
視界にも入らないが、彼らのことを覚えていないわけではない。情報は盾であり武器。顔も名前も、一族の構成も、領地とそれに関する情報も、本人に気づかれぬまま握っていた弱みも、アーデルハイトはすべて覚えている。覚えているが、心中で名前を呼んでやる気にもなれないほど、ただひたすらに興味がわかないだけ。
あまりにもうるさいので、魔力で抑えつけて黙らせた。樹海からの供給を受けられないというのに、無駄な魔力を使わせないでほしい。
「ひ……ひぃッ!」
「ばけ、化け物! お姉様の皮をかぶった汚らわしい魔族めが!」
「あらあら。正真正銘、この身体も、記憶も、感情も、あの日あのとき、ギロチンで首を落とされたアーデルハイトのものなのですが……」
殺すつもりはなかった。今後のハッセルバムのために利用できるのなら、生かしておくべきかとまで考えていた。顔を見れば情がわくかもしれない、などと生ぬるい考えは初めからないが、それでも、ここまで明確に殺意が芽生えたのはなぜだろう。
言葉も発せなくなった父を見る。
アーデルハイトに継がれることのなかった薄茶色い髪は生え際が後退しはじめ、幾本もの白髪が混じっている。イタチらが集めてきた情報の中にはノイラート侯爵家のものもあり、アーデルハイトの処刑によって大幅に力を失ったことは知っていた。一族処刑とならなかったのは、シャロディナルがアーデルハイトを断罪した当事者だからだろう。いったい何のためにアーデルハイトを裏切ったのか。どのような口説き文句でシャロディナルをたらし込んだのか、いずれバルデル伯爵に聞いてみるのも良いかもしれない。
まだ幼かった日。父はアーデルハイトを鞭で打った。いずれ皇后となる日のために、自然とその行動ができるようになるまで礼儀作法を叩き込まれた。会話らしい会話はほとんどなく、言われたことと言えば『表情を表に出すな』『泣くな』『ノイラート侯爵家のため』『メルダース帝国のため』。
そして、『お前のため』。
それは正しく、父の愛。アーデルハイトの愛の証明に愛を返してはくれなかったけれど、幼き日のアーデルハイトはたしかに父に愛されていた。
そのはずだった。そう思ってきた。そう思ったまま、死ぬはずだった。
「わたくしはお父様に愛されたことなど、ただの一度もなかったのね」
化け物。化け物。お姉様の身体を返せと喚く弟を見る。
アーデルハイトと同じように、死んだ母の特徴を色濃く残した弟は、まるでアーデルハイトを男にしたのだとでも言うようによく似ている。アーデルハイトとは違い、彼に母の記憶はない。アーデルハイトとて、母の顔を思い浮かべても肖像画しか思い出せないし、声をかけられた記憶も、抱きしめられた記憶もない。ただ『ハイジ』と呼ばれていたことだけは覚えている。シャロディナルは母の命と引き換えに生まれてきた。
父の方針で、アーデルハイトとシャロディナルはほとんど交流をもたぬまま大人になった。姉として世話をしたことも、姉弟として遊んだこともない。それでも、シャロディナルはアーデルハイトを『お姉様』と呼んだ。
それは正しく、姉弟の愛。アーデルハイトの愛の証明に愛を返してはくれなかったけれど、幼き日の姉弟はたしかに愛を育んできた。たとえ母を奪った幼子であろうと、アーデルハイトは正しく愛し、シャロディナルは正しく愛してくれた。
そのはずだった。そう思ってきた。そう思ったまま、死ぬはずだった。
「わたくしはシャロディナルを愛したことなど、ただの一度もなかったのね」
くるりと振り返れば、地獄絵図の中でさえ穏やかにほほ笑むクリセルダと、まるでサーカスを見ているように楽しそうなイリシャがいる。
「貸してやろうか」
「わたくしに扱えるかしら」
「問題ない。ここをこうして、握って、そう。このまま横にはらってやれば良い」
クリセルダはアーデルハイトに剣を握らせると、その角度まで教えてくれた。岩窟人が打ったものか。ウルが所持していたものと遜色ないほどの業物は、剣を扱ったことのないアーデルハイトには少し、重過ぎた。
全身に魔力を巡らせて身体の支えにし、ふたたび『過去』と向き合う。
「こ、こ、殺すというのか! その顔で! お姉様の名を騙ってこの俺を殺すのか!」
アーデルハイト・ヘルミーナ・ノイラートの名は、十四でマーティアスへ嫁いだときに消え去った。彼らの知るアーデルハイトは、もう死んでいる。
ねぇ、お父様。この身が生まれ落ちた時、素直に『聖女』として育てれば良かったのに。そうすればアーデルハイトという名の『悪女』はいなかったかもしれない。貴方が育てたのよ、『わたくし』を。
ねぇ、シャロディナル。どうして貴方が生まれたのかしら。貴方さえいなければ、お母様が死ぬこともなかったかもしれない。貴方の母も、貴方の姉も、貴方が殺したのよ。
「お姉様は俺を愛していた! お前が本当にお姉様なら、俺を殺したりなどしないッ!」
「ええ、そうね、シャロディナル。でもね、貴方を愛していた『わたくし』を殺したのは、ねぇ、貴方でしょう?」
それをどうか忘れないで。
人を殺す者は、殺される覚悟を持つべきなのだから。
それをどうか忘れないで。
クリセルダから借りた剣は重たかったけれど、この手で切り落とした父と弟の首は、少し怖くなってしまうほどに軽かった。
泡を吹いたまま、気を失うように死んだ父の首。なんの感慨も抱けないアーデルハイトは、きっとシャロディナルが言うように化け物なのだろう。
シャロディナル。アーデルハイトの、ただひとりの弟。鏡のなか以外で、唯一母の面影を見せてくれる弟。愛を知らないアーデルハイトは、『憎い』という感情すらも知らなかっただけ。
『家族』だったものが、『モノ』になって転がる。
最後までこちらを見続けていたシャロディナルの目から、少しずつ少しずつ光が抜けていき、そして消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます