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 ゴルダイム辺境伯邸。

 その執務室から、メルダース帝国の旗がたなびくテントの群れを眺める。

 メルダース帝国内に数ある領主邸のなかでも、ゴルダイム辺境伯邸は一際背が高い。小高い丘の上に建てられたそれはさながら城砦のようで、レッドラインの街はずれどころか樹海の際まで見通せる。


「で、あれらはどうするのだ」

「あれら、とは?」

「わかって聞いているだろう……」

 

 クリセルダの言う「あれら」が、今まさにアーデルハイトの眺めるテントの群れであるならば、たしかにわかって聞き返した。

 何も知らずに見れば、三万の軍はなかなか威圧的に見える。しかし、だからなんだ、という話である。


「あれらは小さな虫の集まりとでも思えばよろしいかと」

「虫の集まりにしては多くないか」


「陛下の敵ではありません」


 小さく笑って、クリセルダがアーデルハイトの肩に顎を乗せた。

 さらりと流れてきた夜空の髪を、指先で梳く。誰かの髪に、意思を持って触れるのは初めてだ。


「お前がやれと言うならば、一晩であの虫どもを蹴散らして見せよう」


 しかし、とクリセルダは続ける。

 強い風に、メルダース帝国の赤い旗がまた、はためく。アーデルハイトの誇りだった、赤い旗。心から愛した、真紅の旗。


 アーデルハイトが、その旗を降ろすのだ。


「私がもう孤独に耐えられないことくらい、聡いお前ならわかるだろう。王として、私はあの虫どもにどう対処したら良い」

「中央を」

「中央を?」


 耳元で囁かれる吐息がくすぐったくて、なぜか笑みが溢れた。

 たとえ拷問を受けたとしても、どんな痛みであっても、アーデルハイトは耐えてみせる。その自信がある。けれど、どうして、クリセルダのもたらす感情にだけは、どうあっても耐えられない。


「わたくしを守りながら、中央を突破してくださいませ。二千の兵で」

「……はは、ははは! ああ、承知した。やってみせよう」


 クリセルダが笑うたびに、アーデルハイトの身体も揺れる。まるで、笑うときはこうするのだと教え込むように。


「お前のわがままは全部、私が叶えてやる」



 ゴルダイム辺境伯を占拠するは、マルバドの第一軍とウルの第四軍、その混成軍であるハッセルバムの兵。そして、それに対するはメルダース帝国の若き大公が率いる三万の軍。

 ゴルダイム辺境伯領を奪還せんと、憎き魔族たちを睨みつける。


「なぁ……本当にこんな作戦でうまくいくのか……?」

「ええ。まったくもって問題ございません」

「なら良いけど……」


 自信なさげに眉を下げるのは、ゴルダイム領での戦闘が終わってすぐに合流した森人のユアンである。

 たった五百の兵を引き連れての合流だが、その五百は第二軍の精鋭だ。それと同時に、イリシャにもこちらに向かってもらっている。


 アーデルハイトが初めてイリシャの魔力像を作って以来、ユアンもまた人型の像を作る練習をしていた。ユアンだけでなく自身の配下にも訓練をさせていたようで、いまや人型魔力像はアーデルハイトの専売特許ではなくなっていた。ユアンら森人たちが持つのは群青色の力であるため、神聖力像というのが正しいけれど。

 この人形魔力像であるが、どうやら力を繊細に扱う練習としては最適であるらしく、容易く成功させる者のほうが少ないのだという。


 メルダース軍が睨みつけるハッセルバム軍のなかに、ユアンら第二軍が作り出した人型像が大量に混じっている。戦闘力としては一切の役にたたない人型像であるものの、それらのおかげでたった一万の軍は大きく膨らみ、遠目から見たらその倍はいるように見えるだろう。体の大きい第一軍のおかげで、なおさら威圧感が増していた。


 まじまじと見れば違和感の大きい大軍だが、まじまじと見せなければ良いだけのこと。

 ハッセルバム軍が捉えた斥候二組は、なんの違和感もなくアーデルハイトの『影』が成り代わっている。

 彼らはメルダース軍へと入り込み、口にするのだ。


『魔族軍は三万を超す大軍である』と。上層部へその声が届かずとも問題はない。

 兵はさらに恐れるだろう。ゴルダイムの屈強な騎士たちを全滅に追いやった恐ろしい魔族の大軍を。

 戦争は数。しかし、それ以上に勝敗を分けるのは情報であり、場の空気を作り出す力だ。


 開戦と共に、『影』たちは名誉ある死を遂げる。アーデルハイトのために、ハッセルバムのために。そして、彼ら自身の命のために。

 アーデルハイトは、その命を無駄にはしない。


 開戦の合図が、高らかに鳴る。


『駄目だ! 勝てるわけがない!』

『俺は逃げるぞ!』

『魔族が、魔族が来る! 俺らを殺しに来るんだ!』

『逃げろ!』

『逃げろ!』

『逃げろ!』


 最初に叫んだのはアーデルハイトの影であっても、それに続いたのもまた、影だっただろうか。否。否。否。

 長引く戦に疲弊し、魔族を恐れた民兵は、その恐怖と逃亡という甘美からは逃れられまい。


 背を向けた兵は殺される。アーデルハイトは『影』に死ぬなとは言わなかった。けれど、死ねとも言っていない。死ねと言ったに等しい命令だが、さて、何人がアーデルハイトの元に帰るだろう。


「行くぞ、青薔薇」


 まるで軽い毛布を抱えるように、クリセルダに抱き上げられた。

 片手でアーデルハイトを抱きかかえ、片手で剣を掲げる。それに続くのは、黒龍旗を持つ二千の兵。


「さあ、この偉大なる龍に続け! 青薔薇を咲かす我らに敗戦などありえん! 吼えろ、獣たちよ!」


 ぐわん、と鼓膜がやぶれんばかりにハッセルバム軍が吼える。

 走り出したクリセルダにしがみつきながら、まるで紙のように切り裂かれていくメルダース兵を、目を逸らさずに見ていた。アーデルハイトの民だった者たちの、その無様な死に様を。


 クリセルダが剣を振るえば、逃げ惑う人間たちの身体がふたつに裂ける。クリセルダが地を鳴らせば、逃げ惑う人間たちの身体が薪のように燃える。

 闇夜の髪を振り乱しながら、まるで悪鬼のように踊る王は、それはそれは美しかった。


 若き大公が率いる三万の軍は、初めから瓦解しているようなものだった。そんな士気の者たちに、ハッセルバム軍が遅れをとるものか。


「陛下、少し南へ逸れています。もう少し北へ」


 アーデルハイトの指示に従いながら、掟を破った龍が人間を切り裂く。

 三万の軍、その中央を、たった二千の兵が切り裂く。


「見えました。騎馬隊の、その先です」


 軍の後方へ進めば進むほど、前線から逃げようとする者どもが雪崩のように仲間を下敷きにしてもがく。それらを堰き止めようと中央の指揮官が叫び、そして自軍の兵を殺す。

 勇猛にもクリセルダへと向かおうとした騎馬隊が、粉砕されたかのように血飛沫をあげて吹き飛んだ。


「私の女に刃を向けるな」


 血飛沫すら薙ぎ払う。

 金色が踊り、闇夜が舞う。


「と、とめろ! その化け物をとめろ!」


「……あれか?」

「ええ、あれです」


 大柄な騎馬に跨り、磨き上げられた鎧を見に纏う若き大公。遅くに生まれた皇子でありながら、皇位継承権を早々に手放したことでマーティアスの派閥についた男。

 けして愚かな男ではないが、だからといって優秀とも言えない。


 その口が一騎打ちを叫ぶ前に、クリセルダの魔力が彼の首から下を吹き飛ばした。



 総指揮官が討ち取られれば、もはや戦闘行為を続ける意味はない。

 初めから勝ち目のない戦に挑んだ若き大公は、結局、戦闘開始からわずか数時間も経たぬうちに首となって高々と掲げられることになった。

 


 メルダース帝国の全面降伏。


 ゴルダイム辺境伯領の瓦解と完全占拠が決め手となったことは間違いあるまい。そのうえで最後の悪あがきを試みた大公軍も大敗。戦闘時間が短かったが故に死者の数はそれほどのぼらなかったが、軍としての体裁はあってないような状態にまで持ち込まれた。

 メルダース帝国は全面降伏を認めたことを機に、各国に領地を割譲。戦争賠償金という多大な負債を背負うことになる。


 しかし、西大陸のすべてを巻き込んだ大戦は未だ終わってはいない。メルダースの悪夢も、そしてハッセルバムの行軍も、まだ終えてはいないのだ。

 メルダース帝国内では農民の反乱が続いていた。現在も戦争に駆り出されていた多くの民兵が各地で正規軍と対面している。


 そんな中、ヴァリ王国との独立戦争を続けるケイマンと魔族の国ハッセルバムが同盟を結び、ハッセルバムがヴァリ王国へと兵を差し向けた。ゴルダイム領に一万を残し、ヴァリ王国に向けて新たに五千。

 人間たちは知らないが、その五千の軍は第三軍イリシャの率いる有翼種族だった。五千もの魔族が隊列を組んで空を飛び進軍していく様子は、人間たちにしてみれば限りない恐怖であったに違いない。

 アーデルハイトは最初から、第三軍とヴァリ王国軍が戦闘になるとは思っていなかった。ただの威力行軍でしかない。しかし、第三軍の姿は人間にとってもっとも高い効果を与えるだろうことは簡単に予想できた。


 ケイマンとハッセルバム軍に挟まれる形となったヴァリ王国は、ハッセルバム軍とぶつかることを避け降伏。空をひしめく魔族の群はヴァリ王国兵に尋常ではない恐怖をもたらし、開戦に至る前に瓦解した。ヴァリ王国はケイマンの独立とハッセルバムの国家樹立を認め、ケイマンはおよそ三十年のときをもってようやく、ヴァリ王国の支配から抜け出した。


 長く争っていた聖ツムシュテク教皇国とヴァリ王国、ケイマン、そして漁夫の利を得る形となったホロホロ諸島とセンドアラ公国。各国が戦後処理へと移行する中、メルダース帝国内を進む一軍があった。

 ハッセルバムの国旗を掲げたわずか二千の軍。王本人が率いるそれらは戦後処理のためにメルダース帝都を目指しているものと思われた。


 しかし、目的地は帝都ではなく。


 けして殺すことなく、しかし止まることなく。城外に二千の兵を残したまま、王とその妃が闊歩する。


「失礼する。ここまで来る間に剣やら槍やら向けてくる者がいたので動けないようにしたが、まあ、正当防衛だ。殺してはいない。許せ」


 派手で豪奢な造りをしたこの城は一見すると王城のようで、まかり間違えても伯爵家の住まいには見えない。それもそのはず。この城は現帝都へと遷都される前に皇城だった場所なのだから。

 派手過ぎる城の外観に反して、扉をあけた先の執務室は質素で、主の性格を反映しているようにも見えた。


 怯えたように、しかしけして逃げ出すこともせず、壮年の男が剣を向ける。


「そう震えるな。我が名はクリセルダ・ハッセルバム。そなたたちが魔族と呼び蔑む者を治める、ハッセルバムの王だ。この世に唯一生き残る、最後の龍である。こちらは私の愛しい妻、アーデルハイト・ハッセルバム」

「バルデル卿、ご健勝なようでなによりです。メルダース帝国前皇后、現ハッセルバム王妃のアーデルハイト・ハッセルバムでございます」


「コッ!? こ、こぅ、皇后陛下! んな、なぜ、あな、あなたが!」


 あら、まだ皇后と呼んでくださるのですね。と、冗談を口にしながら微笑んで見せる。

 

 辺境伯領の割譲やら国家樹立に関する処理やら、諸々の前に、アーデルハイト一行はバルデル伯爵領を訪れていた。

 バルデル伯爵領。覆い隠された歴史が眠る、前帝都へ。


 口角をあげて笑みをつくると、スカートの裾を持ち上げて帝国式の礼をした。


「あなたが戦死していなくて僥倖でしたわ。バルデル宰相殿」

「さい……? ど、どういう……」

「あら、通じませんでした? メルダース帝国をあるべき形に戻しましょう、と申し上げたのです。ノルベルト二世に煮え湯を飲まされた貴方のお母様の為にも」


 クリセルダへ向けていた剣先はぶるぶると震え、先ほどまで保てていたはずの気丈さはもはや見る影もない。なぜ死んだはずのアーデルハイトがここにいるのか。なぜ魔王が自らここまで訪ねてきたのか。自身の私兵たちはどうなったのか。アーデルハイトはなにを求めているのか。自分の命は守られるのか。


 顔面を青くしたバルデル伯爵の頭の中では、様々な思考が入り乱れているのだろう。わざわざ聞かずとも、表情を見るだけで伝わってくる混乱と、恐怖。


「あのとき処刑されたのは、か、か、影武者かッ!」

「いいえ? シャロディナルと貴方の杜撰な証拠を覆すこともせず、わたくしはあのとき素直に首を落とされました」


 良かったですね。マーティアス様に死ねと言われていなければ、シャロディナルも貴方の一族も、わたくしが悉く殺しつくしておりました。

 笑顔でそう言ってやれば、青かったバルデル伯爵の顔がどんどん白へと変わっていく。


「復讐が……目的か」

「そんなわけないでしょう。わたくしはどこからどう見ても殺されてしかるべき女です。処刑されて当然のふるまいをしてきたのに、逆恨みするわけがございません」


 アーデルハイトの実弟、シャロディナルがひとりの力で皇后を死刑へと追いやれるほどの証拠を偽造できるはずがない。シャロディナルはたしかに賢い子であったが、ただそれだけ。悪や善に振り切れるほどの才はもたない。

 アーデルハイトが反乱勢力のロンド歌劇団を晒し首にしたあと、バルデル家がシャロディナルに取り入り始めたことは承知していた。それを泳がせていたのは、反皇帝派を一網打尽にすべく、機会をうかがっていたに過ぎない。


 反皇帝派に踊らされるなど我が弟ながら愚かだとは思ったが、それはそれ。時がくればアーデルハイトが守ってやるつもりでいた。


 此度の戦でメルダース帝国は大敗を喫した。四方を囲まれ分が悪かっただけでは、ここまで負け戦になることもなかったはず。

 バルデル伯爵を中心として動いていた反皇帝派は、いま以上に領土を広げることを良しとしていなかった。反皇帝派のなかでどのような方針が決められていたかには興味ないが、ある程度の敗戦をもってマーティアスを廃位させるつもりだったのだろう。

 バルデル伯爵ら、老練の知恵と力があれば、ヴァリ王国との戦況が膠着することもなく、早いうちに勝利をおさめていたに違いない。そうなったところでハッセルバムにとっての結果はかわりないので、その点についてもどうでも良いことだった。


「ああ、そういえば。貴方のご子息を殺してしまって申し訳なかったわ。あまりにも簡単に罠にかかってくれるものだから……こんなことになるのなら、生かしておいても良かったわね。多少壊れてしまっても、役にはたったでしょうから」

「なッ、な!」

「貴方にとっても悪い話ではないと思うのだけど」


 バルデル伯爵の顔面が青から白、今度は紫へと変わる。

 息子を殺されて怒るくらいなら、きちんと守りとおせば良かったものを。打つ手なく息子のコルネルスを廃嫡としたのはバルデル伯爵自身であろうに。


 クリセルダはアーデルハイトを遊ばせることにしたのか、バルデル伯爵を威圧しないように極力漏れ出す魔力を抑えている。にこにこと機嫌が良さそうな顔をしているので、どうやら楽しんでくれているようでなによりである。


「な、に、が! なにが目的だ!」

「大事な民たちに約束しましたの。メルダースを落とします、と。宣言してしまったものだから、引くに引けなくて。ねぇ?」

「この、悪魔め……! 各国の動きにまるで貴女の影がいるような薄寒さを覚えていたが……」


 ねぇ? と呼びかけられたクリセルダは、まるで愛しい赤子を撫でるような手つきでアーデルハイトの髪を掬う。その喉元からはくすくすと笑い声が漏れ、いかにも悪趣味な魔王様らしい。


 たのしいかしら? わたくしの魔王様。


「わたくしどもは何も国の全土を寄こせなどとは申しておりません。辺境伯領は頂きますけども、目的の大半は達成いたしました。断って頂くなら、それでもかまいません。お首の保証はできかねますが」

「くふ、ははははは! 青薔薇、いっそのこと魔王の地位をかわってやろうか! お前が魔王で、私が王妃だ! 前々から思っていたが、お前の方がよっぽど魔王らしいぞ!」


「わたくし、陛下ほどお強くありませんから。貴女に愛される妻の立場で充分ですよ」


 ぶわりと広がった粘度の高い魔力が部屋を満たし、それに当てられたバルデル伯爵が泡を吹いて倒れた。

 やはり、と思う。いかに何千、何万、何百万もの人間の兵が立ちはだかろうと、この人ひとりで大陸の制覇くらいはできたのではないだろうか。ドナ・ピクシーのように戦う力を持たない魔族も絶滅するだろうが。


 重たい魔力がまとわりつく。


「そうか。ならば、生涯を尽くすしかあるまいな」


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