36
聖ツムシュテク教皇国、その首都シットメットで商売を始めてからおよ五か月。サイハテ商の名は瞬く間に広がった。
関税に酒税までかかっているにも関わらず安価な酒は、庶民たちの間に受け入れられないわけがなかった。なによりも複数貴族、そして教会御用達というのが信用に繋がった。マテオ・フェンナロの名が入る紹介状は、まるで魔法の切符である。
ヒューイたち四十名は商売をする傍ら、首都の平民や商売人たちに噂をばらまき続ける。人の噂も七十五日というだけあって、噂という生き物は世話をし続けなければ死んでしまう。その小さな種火が消えてしまわぬよう、少しずつ、緩やかに、アーデルハイトの配下四十名は餌を巻き続けた。
「アーデルハイト様、大丈夫ですか……?」
「……ええ」
アーデルハイトの計画は滞りなく進んでいる。一行が首都シットメットを訪れて五ヶ月。それはまた、アーデルハイトがハッセルバムを離れて五ヶ月経ったことを意味する。
計画には何も問題はない。配下たちはよくやっている。
問題があるのはアーデルハイトの体調だった。
アーデルハイトの身体は魔力によって動かされている。ハッセルバムにいたあいだは、霊峰や樹海から流れ込む力によって、自動的に栄養を摂取しているようなものだった。
しかし、力場から離れた今、アーデルハイトの体内にある魔力は消費される一方だ。食物を摂取すれば、変換効率は悪いもののなんとか補える。
けれど、気を抜くと意識を失いそうになることもしばしばであった。
意識を失うことは問題ではない。体調不良ごときで計画に支障をきたすわけにはいかない。
問題は意識を失ったことで、理性の外にあるモノが顔を出すことである。それが純粋な凶暴性なのか、狂気なのか、アーデルハイトにはわからない。
アーデルハイトの目的は聖ツムシュテク教皇国を滅ぼすことでも、人間を殺戮することでもない。地図を変えることだ。
魔力が足りないだけで、愛のための行いを台無しにするわけにはいかなかった。
故に、アーデルハイトは己のうちから溢れ出しそうになる得体の知れない狂気をおさえつけながら、明日のために『ベルゲン・ラーカム』の一室に閉じこもっている。
「アーデルハイト様。ノアさんから、これが……」
「……中身は?」
「勝手に開けて良いものかわからず、中身が何かまでかは……魔王陛下より、アーデルハイト様へ、と」
鹿獣人のロニーから渡されたのは、小さな木箱とハッセルバムでは貴重な紙を用いた手紙だった。
ノアと数名の者は、追加の交易品を持ち込むために一時帰国していた。彼らが今朝方シットメットへ戻ってきたことも聞いている。
体調を崩したアーデルハイトを慮って、帰国を促す配下たちもいた。それを断り、ここに残ったのはアーデルハイトの判断だ。
情勢は刻々と変わり続け、動くための機も迫りつつある。シットメットの中心部に入り込もうとしているこの時に、アーデルハイトの私情で計画を遅らせるなどあり得ない話だった。
手紙は短い。少しクセのあるクリセルダの字を、指先でなぞった。
『お前の髪に口付けを落とす夢を見た。必ず、五体満足で帰ってこい』
貴族の男たちがおくるような長々とくどい愛の言葉はない。貴族の女たちが望むような華やかな愛の言葉もない。
けれど、不思議なことに、その短い言葉はクリセルダの声で再生された。じん、と耳の奥が熱くなるような声が、たしかに、たしかにアーデルハイトには聞こえた。
あなたが望むのなら。
心のうちでそう返し、箱を開ける。中にはアラクネの黒い布に包まれた小さな何かが入っていた。クリセルダの着る、魔力を遮断する服と同じ生地。
それに包まれていたのは、漆黒に艶めく鱗だった。ペンダントに加工されたそれは黒曜石よりも深く輝き、シンプルながらも美しい。
手のひらにのせたペンダントから、クリセルダのものだった魔力が流れ込んできた。
ぐるぐると体内を掻き回すような不快感が、一瞬のうちに消えていく。
まるで、アーデルハイトの変化を見越したような贈り物。
「龍の求愛! 話に聞いたことがあります!」
ロニーが少しばかり興奮したように話す。魔力を持たない瞳が溢れんばかりに輝いていた。
「龍は
魔族のあいだでは有名な話です、と締めくくられた。
戦場に送られた兵士が、家族に自身の髪を一房残す慣習のようだ。と、ふと思った。たとえ戦場で命を落としても、愛する者のもとに帰れるように、と兵は自身の身体の一部を残していくのだ。
「ならば、これは陛下の逆鱗ではないわね」
「そうなのですか?」
「ええ、陛下ならばきっと」
アーデルハイトの見ているその場で、逆鱗を剥がすだろう。もしも逆鱗が龍の愛の証明ならば、クリセルダはきっとそうしてくれる。
これが私の愛だと、そう言って。
明日から、聖ツムシュテク教皇国での計画は仕上げに入っていく。
アーデルハイトの愛は死霊魔族の狂気ごときに止められはしない。必ず、望む結果を得て帰るのだ。ハッセルバムへ、クリセルダのもとへ、アーデルハイトの愛の傍へ。
クリセルダが、そう望むのだから。
「お待たせいたしました。枢機卿の皆々様。本国の許可がとれまして、お求めになられていた特別な商品のほう、ご紹介できそうです」
「楽しみにしていたよ、アーデルハイト嬢」
聖職とは思えないほど下卑た表情に、豊かさを誇示するかのような体型。
アーデルハイトが既婚の女であると伝えているにも関わらず、いまだに『アーデルハイト嬢』と未婚の娘を指す呼び方をする。アーデルハイトが皇后だった時から、枢機卿の面子に変わりはなく、変わったところといえばさらに肥えたその体型だけだ。
メルダース帝国へこの枢機卿たちを招き入れる際は必ず、歓待と称して女をあてがう。聖ツムシュテク教皇国にとってメルダース帝国とは目の上の大きすぎるたんこぶであるが、質実剛健を良しとするメルダース帝国にとっても聖ツムシュテク教皇国とは下卑て卑しい国なのだ。お互いにここまで嫌いあいながら、よくもまあ数十年とお隣さんを続けられるものだ。
アーデルハイトの合図とともに、鹿獣人の女たちが真白な布を広げる。
それはアラクネの糸で作られたマントであった。防刃加工が施されている、ハッセルバム国内ですら高価な品である。
「こちらは?」
「我が国の伝統技術を用いた特殊なマントでございます。技術の継承が難しく、これを作れる職人はごく一握りのため、国内でも非常に希少な品となっております」
と言いつつも、希少であることは間違いないが、ハッセルバム常備軍の軍服はすべてこの防刃布で作られる。目を輝かせるほど希少なものとはいえない。
ノアがハッセルバムへ一時帰国し、仕入れてきたもののひとつだ。
「実演したほうが、言葉でいうより伝わることでしょう。リィン、こちらに」
リィンから小ぶりのナイフを受け取り、偽物ではないことを示すために紙を切り裂いてみせる。その柄を枢機卿のひとりに差し出した。
鹿獣人のリィン。彼女の夫はマルバド率いる第一軍で分隊長を受け持つ軍人である。いつぞやアーデルハイトに礼を言った、彼の妻だ。
男がいるだけで良い顔をしない枢機卿のみなさまのために、教会との取引はいつも女たちで固められている。見初められても困るため、顔を隠す必要のない者ですらベールをつけさせねばいけないが、女と言うだけで取引がスムーズに進むのならそれはそれでひとつの武器といえよう。
アーデルハイトは寝所に男を連れ込むような色狂いだと嫌われていたが、アーデルハイトよりもずっと教会の上層部のほうが色に浮かされている。なんのための暗殺だったかは覚えていないが、上位神官の連れ込んだ高級娼婦に暗殺者を紛れ込ませたこともあった。随分と容易く殺されてくれたせいで、罠かと疑ったくらいだ。
体調は変わらず悪いままだが、クリセルダから贈られた鱗の魔力によって、何事もなくこの場に立てている。
今も、アーデルハイトの胸元にクリセルダの一部がおさまっている。
「わたくしがこのマントを広げますので、どうぞ、思い切り振り下ろしてくださいませ」
「まさか、刃を通さないとでも言うのか」
「その目でどうぞ、お確かめください」
人間の形をした大樽がナイフを振り上げ、アーデルハイトはその刃をぴんと張ったマントで受け止めた。マントには傷ひとつ残らない。
ヒト族からも、魔族からも忌み嫌われる半虫であるが、この技術はなによりも素晴らしい。扱い方を間違えなければ、素直で無垢な彼らはハッセルバムの大きな武器となる。
「これは……たしかに教皇聖下にも献上できるほどのものだな……」
「こちらのマントですが、留め具もまた特別仕様で作らせました」
「聖石か……」
でっぷりと肉のついた指が留め具に触れ、これ見よがしに青く光らせた。
マテオ・フェンナロから紹介状をもらってからも、枢機卿との面会がかなうまでひと月を要した。そこからハッセルバム国王の使者として教皇に目通りを願い続け、『教皇聖下に献上できるほどの品をもってくるならば』という条件を勝ち取った。
この枢機卿たちとの交流こそ、アーデルハイトが一時帰国を断念した理由である。
正規のルートではなく、こうして裏からの目通りを願っているぶん、不利なのはこちらだ。服に隠されたアーデルハイトの肢体を見て、あわよくばと思われたのは都合が良かったのか、悪かったのか。
アーデルハイトはただ太った男に気に入られるためにここにいるのではない。民心を煽り続けるだけならば、ノアやヒューイたちだけで事足りる。ここから先、ヴァリ王国やケイマンに進出していく上で、半数以上を引き上げたところで問題ないだろう。
これは最後のひと仕事。たとえ教皇その人と目通りがかなったとしても、実際にことが起きた時に彼らが約束を守るとは思えない。故に、これは保険でしかない。けれど、これほど大きな保険は他にない。
首都シットメットに浸透したサイハテ商と、謎の国『ハッセルバム』を紐づけ、印象付けなければならないのだ。ことが起きた際に、すぐにハッセルバムの名を思い出せるほどに。
教会上層部へ食い込むために、当初ではもっと時間がかかる予定だった。マテオ・フェンナロのお陰で時間を大幅に短縮できたのだから、何かしらの礼はしておくべきだろう。この後、アーデルハイトの活動場所がケイマンへと移っても、首都シットメットには十名から二十名ほど残す予定でいる。今後の計画のためにも小銭は稼いでおきたいため、マテオ・フェンナロとの繋がりは充分に活用させて頂くべきだ。
「我が国の現王陛下が、こちらをどうぞ教皇聖下と六名の枢機卿猊下にと申しておりまして……」
「これと同じものが六つ……ふむ、この布は交易品として出せるのかね」
「そのお話をすべく、教皇聖下にお目通りを願います」
実際のところ、この布は交易品として外に出せるようにはならないだろう。原料が栽培可能な綿や、蚕を飼育して得られる絹とは違うのだ。けれど、そういった細かい点に関しては、実際に交易が始まる前の会談で決めれば良い。
「ふむ、直接の目通りは難しいが、親書の受け渡しはこちらで受け持とう」
「……お心遣い感謝申し上げます」
取り決めとまではいかなかったがアーデルハイトの送った親書への返答は『善処する』というもの。一般的にはやんわりとした断り文句として使われる言葉であるものの、正規のルートを通さずに親書を届けられる、という道が大事なのだ。たったの四十名で赴いた偽装行商人の成果としては上場であろう。
今後、ハッセルバムが開国した際、ハッセルバムを国として認め、優先的に交易をおこなうこと。現王と教皇が対面し、二国間の会合を開くこと。
口約束にも満たないものではあるが、ツムシュテク教皇国に『ハッセルバムはツムシュテクを超える技術力を持った国である』ことは強く印象付けられたはず。いまはまだ、それで良い。
首都シットメットでまことしやかに囁かれる噂がある。
『メルダース帝国はツムシュテク教を冒涜し、その名を騙った異教徒である』
『メルダース帝国はこれからさらに関税を引き上げ、ツムシュテク教皇国を弱体化させようと画策している』
『メルダース帝国はホロホロ諸島をけしかけ、卑怯な手でツムシュテク教皇国を攻撃している』
すこしずつ、すこしずつ。
メルダース帝国に反発心を抱いていた民の心が敵意へと変わっていく。
『メルダース帝国がそのつもりならば、こちらはメルダース産の酒を買うのをやめようではないか』
『どうやらヴァリ王国がメルダース帝国へ攻め入るようだ』
『前皇后のアーデルハイトは悪女だったが、現皇帝は無能である』
すこしずつ、すこしずつ。
民の心が戦争への準備へと傾いていく。
『メルダース帝国は保護すべき聖女を隠匿し虐げた挙句、罪をかぶせて殺した!』
『メルダース帝国は聖女殺しの大罪国だ!』
『メルダース帝国に聖戦を!』
『メルダース帝国に聖戦を!』
『メルダース帝国に聖戦を!』
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