閑話 皇帝と皇后


 幼い息子が可愛くないわけではなかった。


 皇族の証とも言える赤い髪と、ソアラによく似た活発さ。幼いながらに聡明であり、礼儀作法の授業も真面目に取り組む。その身に宿す神聖力も多く、将来が期待できる優秀な皇子といえる。


 父上、と呼び慕ってくれる姿が、可愛くないわけがなかった。


 しかし、ベルツの話題には必ず不快な噂がつき纏った。

『ベルツ第一皇子殿下は、コルネルス・クリストフ・バルデル卿の子である』


 不敬にも城の使用人が噂しているのをこの耳で聞き、迷わず処刑した。仮にも皇族に仕え、その城を管理する者たちだというのに、その皇族の耳に入りかねない場所で噂をばらまくなど。

 しかし、これは使用人たちだけの下衆な噂話ではない。反皇帝派の貴族どもはまだしも、皇帝の側近たる貴族までも、そう囁いている。

 ベルツはマーティアスの子だ。誰がなんと言おうと、マーティアスの子なのだ。


 たとえその瞳が、コルネルスと同じ色だとしても。


「陛下。入室の許可を願います」

「入れ」

「はっ、失礼いたします。皇帝陛下にご挨拶申し上げます」


 外交官としても非常に優秀なこの男は、それ故にアーデルハイトも重宝していたほどだ。まるで悪魔のような所業を繰り返してきた女だったが、そのぶん恐ろしいまでに優秀で、人を見る目もまた確かであった。

 マーティアスの周囲には、そういったアーデルハイトが選び抜いた信の置ける者が集まっている。


「ご報告を」

「またあいつらか……」

「はい。国内の漁船が四隻、センドアラ公国と東大陸への行商船が一隻ずつ。この二か月で、すでに十隻近い船がやられております」


 軽く舌打ちをして、渡された報告書に目を通す。

 メルダース帝国は、北部に沿岸部を持つ。特産の海産物と、陸路が厳しい東大陸との玄関口として、帝国内でも多くの税収が見込まれる地だ。

 北部の沿岸からしばらく船で行くと、多数の島々が集まるホロホロ諸島が見えてくる。人肉を食す蛮族どもが集い、しかし、だからといって奴らがメルダース帝国の害になることはなかった。どころか、ときおり交流のあった帝国に手を出さないかわりに、聖ツムシュテク教皇国に海賊行為を働くなど、帝国にとって利点になることもあったのだ。


 ところが、この半年ほど、なぜか奴らはメルダース帝国の船まで狙うようになった。帝国船よりも小ぶりな船を巧みに操り、証拠も残さぬまま根こそぎ奪い尽くす。狙うのは漁船や行商船ばかりで、交易品を積んだ外交船は狙わない。そのせいで、こちらも取り締まりきれないのだ。


「クソ……なぜ交渉に応じないッ」

「やはり前皇后陛下でなければ」

「その名を出すなッ!」


 怒りで漏れ出した神聖力をおさめ、椅子に深く腰掛ける。

 民には明かされていないが、アーデルハイトとホロホロ族のあいだに個人的な交流があったことは、貴族間では有名な話だった。卑しい蛮族との交流は褒められたものではなく、それでも個人的な交流であること、そして帝国にも利があったことから、暗黙の了解とされ見逃されてきた。


 アーデルハイトはホロホロ族の茶を好んでいたが、最近の蛮族の動向から非公式に私掠御免状が出されていたのではないかと言われている。

 アーデルハイトが動かしていた影どもはあやつの死後、多数が消息を絶ち、捕らえた者もひとり残らず自害した。悪女に仕えていたとは思えぬほど、大した忠誠心である。

 影たちは仕えるべき主人が死んだにも関わらず、何ひとつ口を開くことなく死んでいった。誰もが『アーデルハイト様、万歳』と唱えて。


 気持ちの悪い話だ。


「土地でも動かぬ、権力でも動かぬ、金でも動かぬ……」

「前皇后陛下のお名前を出した際、こちらの外交官に対して激怒した者が複数いたと報告が上がっております」


 ホロホロ族による海賊行為が露見し始めてから、マーティアスもまたホロホロ諸島に対して私掠御免状の発行を申し出た。しかし、奴らはまるでこちらを下に見るような態度を崩さず、海賊行為も認めようとしない。

 正式に海軍を差し向けた武力制圧も視野に入っているが、海賊行為の証拠もなければ、大義名分もない。貴族たちが派閥にわかれ、民心が離れつつある今、他国に対して隙を見せるわけにはいかなかった。


 アーデルハイトが死んでから二年ほどは良かった。あれはたしかに悪魔のような女であったけれど、その自覚も持っていた。

 アーデルハイトはマーティアスを皇帝にするために生まれ、それ故に悪魔へと変貌し、そしてすべての罪を背負って死んだ。アーデルハイトは骨の髄まで、マーティアスのものだった。


 悪魔との子は残したくなかったため、一度としてその身体に触れたことはないが、それでもあの女はマーティアスのものであった。


 彼女の首を切り落としたとき、せめてもの情けとしてその身を清め、アーデルハイトを象徴する青薔薇を敷き詰めた棺を用意した。皇族の墓にいれるかわりに、黒く染めた聖木の棺に寝かせ、そうしてアーデルハイトを捨てたのだ。


 コンコン、と軽いノックの音と同時に、扉からソアラが顔をのぞかせる。


「陛下」

「どうした、ソアラ。身体はいいのか?」

「はい。今日は調子が良いので、先ほど庭園を散歩して参りました」


 柔らかく微笑むソアラに、ささくれだった心がすうと落ち着いていくのを感じた。

 ソアラ・エマ・ラ・メルダース。十五の少年だった頃から、マーティアスの心を掴んで離さない女。男爵家の私生児として孤児同然の生活を送りながら、身に秘めた強い神聖力を買われ、オルトロープ公爵家の養女となった。

 マーティアスが皇帝になったのも、ひとえにソアラのためだった。


「お前は下がれ。ホロホロ族の問題については後で会議を行う」

「は」


「おいで、ソアラ」


 ソアラを膝の上に乗せ、大きくなってきた腹をさする。二人目の子。マーティアスの子だ。


「うふふ、早く陛下に会いたいよってお腹を蹴っていますよ」

「ああ、私も早くこの子に会いたい」


 元気な子を生んでくれ、と頬に口づければ、まるで生娘のように頬を染める。出会った頃から変わらず、ソアラは可愛らしく、美しい。見た目だけではない。優しすぎるほどのその心も、いつだってマーティアスを夢中にさせる。


 マーティアスは十四のときに、アーデルハイト・ヘルミーナ・ノイラート侯爵令嬢と婚姻を結んだ。生まれてきた時から決められた婚約で、帝国内でも話題となるほど美しい娘とあらば、マーティアスも悪い気はしなかった。

 けれど、もし。もし人生をはじめからやり直せるのだとしたら、マーティアスはけしてアーデルハイトと結婚などしなかっただろう。結婚をした後に、全てを捧げても良いとまで思える女に出会えるなど、誰が想像しただろう。結婚した女が、血も涙もない女だと、誰が想像しただろう。


 すでにアーデルハイトという皇子妃を迎えていたマーティアスがソアラと結ばれるためには、ただひとつ、皇帝に即位する未来しか残されていなかった。


 皇帝になれば、皇后の他にも皇妃を迎えられる。皇后の座はあげられないが、ソアラを手に入れることはできる。

 ソアラに懸想していたのは、なにもマーティアスに限った話ではない。可愛らしく、可憐なソアラ・エマ・オルトロープに、多くの令息が狂わされた。

 旧友のコルネルスがソアラに懸想したのも仕方のないことだったのだ。ソアラはあまりにも魅力的過ぎる。コルネルスのバルデル家は伯爵家といえど、家格に見合わぬ力を持つ家だ。ソアラは公爵令嬢であっても、所詮は養女。コルネルスに奪われてもおかしくはない。


 だから、マーティアスはアーデルハイトを受け入れた。

 皇帝になるために、アーデルハイトという名の悪魔と契約を結ぶ。あの頃は、そんな気持ちだった。


 政略的な婚姻関係でしかなく、マーティアスもそれ以上の距離を詰めることはしなかった。それなのに、アーデルハイトの献身は異常とまで言えるほど。

 マーティアスのために戦争を起こし、マーティアスを勝たせるためだけに罪のない農民を焼き殺す。マーティアスに差し向けられた暗殺者を、アーデルハイト自身が殺したこともあった。マーティアスに扮するために男物の寝間着を身にまとい、全身を血に染めた姿を忘れることはないだろう。


『マーティアス様がご無事で良かったです』

『マーティアス様のために』

『マーティアス様に勝利を』

『マーティアス様』

『マーティアス様』

『マーティアス様』


 マーティアスはずっとアーデルハイトが怖かった。誰よりも、何よりも、アーデルハイトが怖かった。

 

 だから、殺した。


 いつか血に塗れたその手がこちらに伸ばされる前に。マーティアスや大事なソアラまでもが青い薔薇の養分となる前に。

 メルダース帝国にはいまだ、アーデルハイトの影がちらついている。アーデルハイトを死刑に処してしばらくは、マーティアスは正義の皇帝だった。けれど、数年経とうとその影は薄れることなく、いまや『青薔薇を失った無能の皇帝』とまで言われる始末。


 皆が言うのだ。

『こんなときに元皇后陛下がいらっしゃれば』

『青薔薇様ならどう動いただろう』

 アーデルハイトが皇后の座にいたのは、わずか五年ばかり。それなのに、政に携わる誰もが、アーデルハイトを忘れられずにいる。あれが死してなお、マーティアスはいまだ、青い薔薇の影でもがいている。


 民の歓声が響き渡る青空の下。首を刎ねられた後も、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべていたアーデルハイトの生首。その青い目から光が失われるそのときまで、最後の最期まで、マーティアスのことを見ていた。

 マーティアスはときおり夢を見る。

 あの日、首を刎ねられたアーデルハイトを。その生首が笑い、言うのだ。『マーティアス様……マーティアス様……』と。


 逃げ出したかった。アーデルハイトの幻影からも。皇帝の重圧からも。このメルダース帝国からも。


 本当のところ、マーティアスにとってはメルダース帝国も、皇帝の地位もどうだっていいのだ。ソアラを手に入れるために皇帝となっただけ。アーデルハイトもコルネルスもいない今、ソアラを連れてどこか遠くに旅立ってしまいたいとさえ思う。


 期待するな。押し付けるな。どうだっていい。見知らぬ誰かの生活など、責任を負えるはずがない。

 アーデルハイトの名を出すな。青い薔薇を見せるな。知らぬ。やめろ。


「ふふ。あなたの父上は甘えんぼさんですねぇ」


 アーデルハイトは死んだ。コルネルスも死んだ。

 その腹の子はマーティアスの子。ベルツだってマーティアスの子。ソアラはマーティアスのものだ。


「ソアラは、俺のものだよな?」


 愛しい女は可愛らしく笑うだけ。落とされた口づけは肯定か。

 けして答えてくれることはなかった。



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