第1話 目覚め
「…様、……………お嬢様…」
…誰かが、私を呼んでいる。
丁寧だけれど、どこか芯の通った強い声。
確かに聞いたことのある声だけど、強い眠気のせいか、今はまるで思い出せない。
「…様、…グレイスお嬢様…」
…あぁ、そうだわ。この声、亡くなったお母様にそっくりなのよ。
普段はとても優しいけれど、凛としていて、怒るとちょっぴり怖くて…私の憧れのひと。
小さい頃の私は朝が苦手で、よくこうやって起こしてもらっていたっけ。
「…グレイスお嬢様…」
…お母様、私、頑張ったのよ。
お母様が亡くなった後も、たった一人であの家で過ごして。どんなに悲しくて辛くても、私は平気だって自分に言い聞かせて。お母様に言われた通り、いつも気丈に振舞い続けたわ。
…結局、生き残ることはできなかったけれど。
「…お嬢様、」
………ねえ、お母様。
実は私、次にお母様に会ったら、どうしても聞きたいことがあったの。
あの日、お母様は、本当に―
「起きてください、グレイスお嬢様!!」
「ぅあっ⁉」
突如意識が覚醒し、体が勢いよく跳ね上がった。
がばっと布がめくり上がる。
そして。
飛び起きた私の目の前に、ありえない光景が広がった。
「………………………え?」
黒い天蓋付きのベッドに、お母様からもらったドレッサー。
少しでも知識を詰め込もうと、懸命に本を読み込んだ勉強机。
ドレスが溜め込まれたクローゼット。その上に置かれた、綺麗なアクセサリーの数々。
…間違いない。
ここは、公爵邸の東の端にある、ガルシオンの子供部屋。
私の、部屋だ。
「はぁ…やっと起きましたね。おはようございます、グレイスお嬢様」
「!」
ふと脇から声が聞こえ、見てみると、そこにはレモン色の髪をしたメイドが立っていた。
彼女の声を聞くに、どうやら私を起こしていたのはお母様ではなく、このメイドだったらしい。
彼女はこちらに見向きもせず、せっせと花瓶の花を取り替えている。
「………メイ…?」
「まったく、何度声を掛けたとお思いですか。朝が苦手なのは重々承知しておりますが、そろそろお一人でも起きれるようになって頂かないと…」
「…あなた、メイよね…?」
呆然と呟いた私の言葉に、彼女はきょとんとした顔を見せる。
彼女の名は、メイ・リリアンヌ。
帝国の南に小さな領地を持つリリアンヌ子爵家の次女で、生前私の専属侍女だったはずだが…。
何故、死んだ私の目の前に、彼女がいるのだろう。
「なんで、あなたがここに…」
「はい?」
「だって、私さっき死んだはずじゃ…」
「もう、いつまで寝ぼけていらっしゃるんですか。夢の話はお控えください」
夢…?
私は、夢を見ていたのだろうか。
なら、あの屋敷で暴れた日々も、ジークに殺されたのも、全部、夢…?
…いや、そんなはずはない。
使用人を鞭打ったあの手のひらの感覚も、殺される直前に感じた、あの剣が体を貫く感覚も、私は今でも鮮明に覚えている。
でも、それなら今の状況はいったい…。
「お嬢様。それよりも、早く身支度をなさいませ。今日はブラッドベッツ卿がいらっしゃる日でしょう?」
「え⁉」
唐突に出てきた彼の名に、私は思わず目を剥く。
ジークが、私に会いに来る…?
ここまでくると、いよいよどうなっているのかわからない。
「お二人の結婚式について話し合うと、昨日ご自分で仰っていたじゃありませんか」
「私が…?」
「ええ。ほら、早く起きてください」
メイにせかされるまま立ち上がり、鏡の前で髪をブラシでとかされる。
お母様譲りのグレーの髪が、陽光に照らされて艶やかに光った。
「…」
…結婚式は、確か一年前だったはず。
私の記憶が正しければ、私はジークと二人で結婚式の計画を立て…そして、式直前で婚約破棄を言い渡されたはずだ。
ならば私は、一年も前に戻ってきたのだろうか…?
だが、何故…?
考えてみるが、巻き戻った方法も、理由もわからない。
そもそも、そんなことが本当に可能なのか。
「…お嬢様?聞いてます?」
「えっ、あ…何かしら」
どうやら、メイの会話を聞き漏らしてしまったらしい。
彼女は、今度は露骨に顔を曇らせた。
「今日、お召しになるドレスを伺ったのですが…」
「…ごめんなさい、聞いてなかったわ」
「どうかされました?先ほどから、ずっと上の空ですが」
「…いえ、」
大した言い訳も見つからず、私は思わず言葉につまる。
「…」
そんな私を見かねたのか、メイは小さく息を吐くと、部屋のテーブルを一瞥した。
「…でしたら、水でもお飲みになりますか?少しは頭が冴えるかもしれません」
テーブルの上には、水の入ったガラスの容器が置かれていた。
眠っている間、彼女が持ってきてくれたのだろうか。
私は頷く。
「…そうね、いただくわ。注いでくれる?」
「畏まりました」
そう言い、メイはグラスを持つと、容器に片手をかける。
その時だった。
「姉ちゃぁぁぁんっ‼」
バン、と突如勢いよくドアが開き、一人の少年がものすごい速さで私に抱き着いてきた。
「きゃっ!?」
唐突な衝撃に、椅子からずり落ちそうになるところをぐっとこらえる。
そして、次の瞬間。
私は飛びついてきた少年を見て、目を丸くした。
「ヒース…⁉」
「おはよう、姉ちゃん!もう、なかなか来ないから迎えに来ちゃったよ!」
少年は私の腰に抱きついたまま、ぷくっと頬を膨らませる。
無邪気な瞳が、きらきらと私を見つめていた。
漆黒に輝く美しい黒髪に、吸い込まれてしまいそうな濃いサファイアの瞳。
見間違えるはずがない。
彼は公爵家の三男であり、学者を多く輩出する【博識】のディルガード伯爵家を母に持つ、ガルシオンの八番目の子。
私の腹違いの弟、ヒース・ガルシオンだ。
「ヒース…」
やはり回帰した、一年前の彼なのだろう。
私を見上げる彼の顔立ちは、私が見慣れていた彼より、まだ僅かに幼かった。
彼は敵対心の強い兄弟の中でも、唯一私に懐いてくれていた弟であり、共に過ごした時間も長かったせいか変化が顕著にわかりやすい。
少年の成長は急激なもので、一年あれば大きく変わるのだ。
「あの…ヒース様、何故こちらに?」
突如来訪した彼に、おずおずとメイが遠慮気味に尋ねる。
私も気になったが、しかし当の本人はそんなことを気にもせず、メイの手に目をやると、何故かぱっと顔を綻ばせた。
「あ、それ水!?ねえ俺にも頂戴!走ってきたからあっつくて!!」
「えっ」
メイが何か言う前に、ヒースは彼女からグラスを奪い取った。
私がメイに頼んだ水だ。
一瞬何が起こったのかわからないといったメイだったが、我に返り、すぐさま制止の声を上げる。
「お、お待ちください!ヒース様、それはお嬢様の…っ」
「ぷはっ」
しかし、時すでに遅し。
メイが言い終わる前に、コップは早くも空になっていた。
「…ん?なんか言った?」
「…」
…今、思い出したが。
ヒースは、兄弟の中でも飛び抜けて自由奔放な性格だった。
このような光景も、どこか見覚えがある。
もしかしたら覚えていないだけで、回帰前も同じようなことがあったのかもしれない。
「い、いえ…」
仕事を全う出来なかったメイは、どこかばつが悪そうだ。
息を吐き、気を取り直す。
「それで、ヒース。朝からどうしたの?」
「あ、そうそう。姉ちゃん、朝食まだでしょ?せっかくだから、一緒にどうかなって」
にっと笑い、子犬のように純真な目が、私を見上げる。
…この子、本当に尻尾でもついてるんじゃないかしら。
幻覚なのはわかっているが、彼の後ろで尻尾がぱたぱたと揺れ動いているのが見える。
例えるならば…そう、黒い毛並みのラブラドール。
このまま本当に、わしゃわしゃと彼の髪の毛を撫で回したい気分だ。
しかし。
「…そう」
…声に出して、ふと、私は回帰前に比べて自分の声音がどこか冷めたものになっていることに気づいた。
もしかしたら、無意識に彼に警戒心を抱いていてしまっているのかもしれない。
ヒースが私に向けてくれている善意を疑っているわけではないが、あんなことがあった後だ。
疑心暗鬼になってしまうのも仕方ない。
「…?姉ちゃん…?」
彼も、私の異変を少なからず感じ取ったのだろう。
今までになく素っ気ない私の態度に、眉をひそめている。
心苦しいが、これも生き残るため。
今世は誰も信用しないと誓ったのだ。
ならばこの感情も、あながち間違ってはいないだろう。
…それに。
私にはまず、真っ先にやらなくてはいけないことが残っている。
「…ヒース、誘ってくれたところ悪いのだけれど。今から、ジークに会いに行かなくちゃいけないのよ」
そうだ、もう後には退けない。
理由はなんにせよ、私は戻ってくることができたのだ。
ならば、今の状況を最大限に活用しなければ。
私の言葉にヒースは、え、と声を漏らす。
「アイツに?なんで?」
「今度行う結婚式について、お二人で話し合うそうです。ですから、ヒース様は…」
「いいえ、違うわ」
メイの言葉を遮り、私は立ち上がった。
そう、「悪役令嬢」だった頃の私はもういない。
私は時間を超え、確かに生まれ変わったのだから。
「ジークとの婚約は、破棄する。…今から、その話をしに行くのよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます