7章 追憶

第44話 執筆

『精霊という者は実に奥深い。多種多様な種類がいて、この世の精霊辞典なんて物を作ろうとしたら編纂だけで十年はかかる。そのほとんどは見えないけれど、この世にはそれらを見ることの出来る人間も確かに存在していて、わたしはそんな彼らから精霊について日々学んだ。


 精霊学者であるわたしが精霊研究に身を賭した過程について少し語ると、幼少期の祖母との暮らしがあった。老いた祖母は精霊の声を聞ける特別な人だった。時々、人のいない所を見つめてはぶつぶつと呟く。家族はそんな祖母の姿を呆けたと勘違いしていたがわたしには見えていた。


 目に見えぬ者の湛える小さな心の光。精霊信仰とは見えぬ者を慈しむこと。ステラの町に暮らして十五年が過ぎようとしている。わたしはそこで一人の少年に出会った。彼は……



「ああ、ダメだ! 格好悪い」


 スタックリドリーはそう叫んで書きかけの紙をぐしゃぐしゃに丸めて後ろに投げた。片付けるもののいなくなった部屋には丸まった紙屑が山のように転がっている。今朝から書き始めた文章は一進一退、どうにもこうにも前に進んでいなかった。やっと書きあげた数行もこうして丸めてしまう始末。精霊が見えた偉大な彼との別れから二週間が過ぎていた。


 忘れぬうちに感動を認めようと執筆に今朝から取り組んでいるのだがどうにも始まりが上手くいかない。序文ではなく本文が重要なのは認めるが、それでも何かが始まる予感のようなものは演出したいのだ。今度の本は人生で一度きりといえるほどの力の籠ったものにしたかったから。


 時計を見ると出勤の時間が近づいていた。


 文字との格闘を止めて、身支度をする。気づけば顔さえ洗っていなかった。無精な髭を反り、子供たちに見せられる顔を作る。戸棚にあるパンを取り出すと少しカビていた。ふんと鼻息荒くして負けるものかとカビを流しで払い落し、バターをのせて大口で齧る。手短な朝食を終えると鞄を抱えた。


「スタックリドリー先生、お早うございます」


 上区の高台にある天文台に併設された子供たちの学校で朝の挨拶を交わす。スタックリドリーはこの町に住みだした時からここでずっと精霊学を教えてきた。背丈が自身の腰元にも届かぬ小さな子どもたちは精霊学の授業をそれは楽しみにしている。小さな彼らの中にもステラの精神はちゃんと流れているのだ。元気あふれる子供たちに軽やかに挨拶をしながら職員室へと向かう。


 窓際の明るい席へと腰をかけ、荷物を降ろす。ここが、自身の居場所だ。受け持ちの授業までは少し時間がある。紙の束を鞄から取り出すと意気込んだ。人生に悪戯に浪費すべき時間などないのだから、空いている時間こそ大いに活用したい。


「リドリー先生、また本を書かれるんですか」


 算術の教師が声をかけてきた。対面の国語の教師がそれを聞いて笑う。


「リドリー先生はわたし以上に国語を綴られておられる。わたしなど論文を書くのが精いっぱいです」


 一年に一度、自らの学びを捨てず論文を書くこと。それが理事長の課したこの学校に教師として在籍する条件だった。


 すなわちこの学校の教師は誰も彼もが学者である。幼年学校に学者を雇うというのも理事長の方針だ。学者というのは遊び心があり、必要以上にエゴを持って詳しく教える。それが子供たちの探究心を育てる。


 そうして育った子供は将来町の力になる。理事長は話す機会があるとそのたびにそれはもう自身の理想を交えながら教育方針について切々と語る。


 授業時間が始まり、半数以上の教師が職員室を出て教室へと向かった。一時間目は暇だ。邪魔者はいなくなった。やっとこれで執筆に集中できる。


 スタックリドリーは紙の束へと向き合った。 


『目に見える者を大切にすること。長く暮らしたステラの町でわたしはその文化を感じた。通りに砂糖菓子を飾り、目に見えぬ者を慈しみ信仰する。すると彼らはそんな人々の気持ちを汲み取って、ささやかな贈り物をする。好奇心という名の贈り物だ。知らぬ間に減っていく砂糖菓子に精霊の姿を見る。


 どんなに食事を摂るのを忘れようとも人々は砂糖菓子だけは忘れない。なぜなら彼らもまた、人ともにこの町を支える生き物なのだ。


 そして摩訶不思議なことばかりが起こるこの町でわたしは一人の少年に出会った。その子のことはここでは『彼』としよう。これから彼の起こした奇跡を語る前にまず、わたしは彼がこの町に来るまで歩んできた旅路について語らなければならない――


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