第32話 海の王者

 トニヤは懸命の力で縄を握り銀色の巨体にしがみついていた。


「絶対放さない、絶対放さないぞ」


 ハンプトンは網を突き破り、自由へと泳ぎだす。


「小僧離れろ」

「いやだ、放すもんか」


「精霊に手をかける意味を知っているか」

「何だっていうんだ」

「遺恨を喰らうことになるぞ」


 遺恨、その言葉に目が覚めるような思いがした。そうか、セラは精霊に手をかけたのか。


「さあ、生きたければ手を放すがよい」


 トニヤの手がゆっくりと緩んでいく。手からするすると紐がすり抜け、どんどん精霊の姿が遠ざかる。その時、頭の中を船員たちの笑顔がよぎった。懸命に働く船員たちの姿が指先へと伝わる。


 トニヤは紐を握り直し再び手に力を込めると強く念じた。


「お前を絶対捕まえる。絶対に」


 次の瞬間、ハンプトンが大きく左右にうねり、海面を弾いた後、空中へと躍り出た。


「トニヤ!」


 空中へと打ち上げられたトニヤの身を懸命にジャンクが掴み、セレス号へと引き戻した。ルウがジャンクの指示で急いで銛の紐を切った。

 トニヤは銛の紐の切れ端が速やかに海に消えていくのをジャンクの腕の中で見送った。




「馬鹿野郎。死んじまうところだったぞ」


 ジャンクが潮にぬれた顔で叫んだ。トニヤは力なくへへへと笑うと傷む掌を目の前に掲げた。皮が破けてじわじわと血が滲み始めている。


「あとちょっとだったのに」


 そういって手を力なく落ろす。


「二度とすんじゃねえ」


 二度と。トニヤは薄れゆく頭で考えた。そもそもハンプトンにまた会えるのだろうか。ルウはハンプトンに出会えるのは僥倖だといっていた。自分はそのチャンスを逃した。

 逃がした魚はでかい。とてつもなくでかい、いったいどんな味がするんだろうな、一度でいいから食べたかった。短い間にそんなことを思い浮かべた。


「二度とお前たちとは会うまい」


 脳裏に聞こえた声にトニヤは目を見開く。突如ハンプトンの穏やかな声と共に視界を覆う景色が一変した。乗組員たちは慌てふためいた。天に光があふれ、景色がかあっと白くなりその後、海中の光景が全天に広がった。


 濃紺の星屑をちりばめたような海に雄大に泳いでいくハンプトンの大きな背中が見える。ハンプトンは重たい水を掻きわけて深海へと潜っていく。辿り着いた先で見えたのはたくさんの魚影だ。数え切れないほどのハンプトンが群れを成して泳いでいた。魚群は銀色の細い筋となり海に模様を作りながら遥か彼方へと消えて行った。


 景色が戻ると皆で肩を抱き合って一刻の幻に興奮した。


「あれはやっぱり精霊だったんだ」

「オレたち海の主にあったんだよ」


 トニヤは急に力が抜けてジャンクの膝に頭を降ろした。感情の海の中で、賑やかな仲間の声がだんだん遠のいて行く。ひどく疲れた気がする。


 彼は偉大だった。自分ごときに手が出せないほど偉大なのだ。この先、海が枯れ果てない限り彼の命は続いて行く。ずっとずっと永遠に。トニヤはそんなことを思いながらふっと意識を失った。




 セレス号はその後、航海を続けてとうとうノーザンピークの漁港へと辿りついた。トニヤは持ち切れぬほどの思い出を抱えて皆に見送られながら船を降りた。


「いい男になった」


 ジャンクが感慨深げに言った。巨大魚との戦いはトニヤを成長させた。


「ジャンクさんもです」


 トニヤの受け答えに乗組員たちが笑い声を立てる。


「生意気いいやがって」


 ジャンクはトニヤの頭をがしがしと撫でた。トニヤは少し日に焼けて腕にはしっかりとした筋肉がついた。背も乗船したころより少し伸びていた。


「船で学んだことは今後の人生に生きる。しっかりといい大人になるんだよ」


 ディードの言葉にトニヤは「はい」と笑顔で頷いた。


「トニヤ、戻る時はまたこの船に乗れよな」


 ルウの言葉にトニヤは「ええ、また働くの」とうんざりとした顔を見せた。ジャンクがぽかりとトニヤの頭を叩いた。また、笑いが起きる。


「ステラの町はここから歩いて一時間もすれば着く。素敵な町だけれど占いに凝って散財するんじゃないよ」

「はい」


 トニヤは何度も振り返り手を振っては前へと進んだ。


 歩くうちに夕暮れに星が浮かび始めた。幾度となく海で眺めてきたが、今日の星空は違って見えた。燃え立つように力強く、そのどれもに命が宿ったように輝いている。セラはこの星空をきっと眺めている。ステラの町に必ず居る。辛くても、もう泣かないと決めた。逞しくなった自分を早く見てもらいたかった。

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