第31話 僥倖

 女性の言葉通りムルティカを発って三日過ぎても何も起こらなかった。普段通り漁もしたし、安心しきって呑気に昼寝もした。船長のディードは一人神経を尖らせていたようだが、それもどうやら徒労に終わりそうだ。


 そろそろ午後の交代の時間だ。この頃、航海術なども勉強し毎日が楽しい。自分は案外向いているのかもしれない。そう思いトニヤが伸びをした時、船がグンと後方に引かれた。


「どうした」


 ジャンクが操舵室に飛び込んだ。船の後方から声が飛ぶ。


「獲物がかかった」

「獲物だと」


 ディードとジャンクは甲板へと飛び出して後方に過ぎ去っていく海面を見つめた。遥か深くに魚影が煌めく。遠くでも銀色に光り船を揺らすほどの大獲り物――


「ハンプトンだ」


 ジャンクが驚嘆の声を上げた。即座に船が湧き立つ。皆がいっせいに引き上げの準備を始めた。トニヤもそれに加わり、網を懸命に引く。


「せーの」


 皆でリズムを合わせ、腰を深く落とし網をグンと引いた。巻きあがった、と一瞬思ったらそれが即座に海面に引きずり込まれる。もう一度引くと今度はよりいっそう海中へと潜る。


「何て力だ」


 ベテラン漁師のジャンクですら経験したことのない威圧なのだろう。ハンプトンが強大な意思を持って逃げようともがいている。


「せーの」


 もう一度皆でいっせいに引くと今度は船の縁が沈んだ。海水が乗りあげる。網から伝わる手ごたえはやはり並大抵の物ではない。


「このままでは網が破れる」


 ディードが叫んだ。


「破れるならまだいい。このままでは船が沈む。一つ失うのは惜しいが網を切り離そう」


 ジャンクの意見にディードが頷いた。

 その時、声が聞こえた。


「無礼者が」


 水の奥深くから伝播する声。皆がざわめいて網を持つ手を緩めた。


「声だ、声が聞こえたぞ」


 船中の人々がおそらくその声を聞いていただろう。


「我を捕縛するなどと」


 海中から強い怒りの念が伝わってくる。


「精霊だ」


 トニヤが唖然として呟いた。そう、あの時、森で聞こえた精霊と同じものを感じた。


「このハンプトンは精霊なんですよ」


 ジャンクに訴えかけて、海面を覗きこんだ。先ほどよりか浮上しているようで姿が良く見える。


「ハンプトンが精霊だと、そんなこと」

「さっきの声、皆聞いていたでしょう。彼はおそらく精霊の魂が宿ったハンプトンなんです」

「いや、しかし」


 ディードがうろたえた。


「精霊ならば逃すしかないだろう」


 ジャンクが信心深い様子で落胆の色を見せた。その様子を見てトニヤは拳を握りしめた。


「ハンプトンを釣りましょう」


 海面が激しく波飛沫を上げる。ディードとジャンクが唖然とした。


「お前は何をいってんだ」


 ジャンクが信じられぬといった様子で怒鳴り声を上げた。ジャンクの怒鳴り声を浴びるのは久しぶりだった。


「ハンプトンを釣り上げるのは海の男の誉れなんでしょう」

「相手が精霊なら話は別だよ。それにこのままじゃ船が。網も直に破れる」


 ディードが困った様子で腰に手を当てた。


「海面に顔を出した瞬間を狙ってケーブルのついた銛を打ち込みましょう」

「オレは精霊に手出しするなんて」

「命は巡る物。ここで出会ったことに意味があると思うんです」


 トニヤの必死の訴えにディードとジャンクの二人は黙りこんだ。こうしている今も乗組員たちは必死の攻防を繰り広げている。


「せっかくの栄誉を捨ててしまうんですか」


 トニヤの言葉に二人はハッとした様子でこぶしを握り締めた。


「……よし分かった」


 少しの間の後、ディードが決意して深く頷いた。


「これよりハンプトンを捕獲する。指揮はジャンクに任せる」


 ディードはそういうと操舵室へと飛び込んだ。戸惑っていたジャンクも覚悟を決めた様子で「よっし」と意気込んだ。


「銛が打ち込めるくらいまでは網で引き上げる。無理に引っ張るな。破れると元も子もない。オレの合図に合わせろ」


 トニヤも加わり、網の端を手に持つ。


「せーの」


 かけ声に合わせて皆でいっせいに網を引く。ずりずりと音を立てて、網が船縁に擦れながら姿を見せる。もう一度「せーの」とジャンクがかけ声をする。


 誰もが決死の思いで戦った。攻防を半刻ほど続け、やがて魚影がしっかりと見えるようになるとジャンクが極太の縄のついた銛を構える。大型魚用の特別なものだと聞いていたがトニヤが乗船して使うのはこれが初めてだった。


 ジャンクが鋭い眼光でハンプトンを睨みつけ、重心を後ろに移動させた後、左足を踏み込んだ勢いで銛を投擲した。銛がハンプトンの背に突き立つ。


「ぐおおおおお」


 のたうつ精霊の声が海を揺らした。続いてジャンクが第二射を構える。船にはこれ以上銛がない。慎重に狙いを定めると再び投擲した。


 銛は脳髄を貫き、ハンプトンの命を襲う。すさまじいほどの苦しみに気圧されそうになるのを耐えて皆で手分けして網と銛を引く。トニヤも力の限り銛を引いた。荒い麻紐に掌が擦り切れ血が滲む。よりいっそう力を込めて。


「せーの」


 心を一丸にして紐を引いた時、ハンプトンが雄大に空へ跳ねた。

 空中を高く舞った後、ざぶんと大きな飛沫を上げて海中へと潜った。


 体がぐんと空に舞った。


「トニヤーーーーーー」


 ジャンクの名を呼ぶ声が海上に木霊した。

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