第24話 荒れ狂う海

 次第に船が軋みを上げ出した。眠れず船室の隅に座り込み体を縮こまらせ、いよいよ沈むと怯えている者もいる。セラは考えた。自分に出来ることは本当に無いのかと。精霊が見えて話すことが出来るのはこの船でおそらく自分ひとり。人に知られることをおそれている場合ではない。このままでは船は本当に沈む。何とかしなければ。


「話の通じる相手だとは思えないけれど」


 決意して立ちあがると甲板へと飛び出した。


 甲板は立っていられないほど吹き荒れて、濡れた木に滑った。何とか、手すりを伝いながら船の縁へと取りつき豪打する海面を見た。

 海面には不気味なほどたくさんの海の藻屑の精霊がいた。船を取り囲み笑っている。操舵が効かないのはおそらく彼らの力によるものだろう。


「お前たち、今すぐ船に取りつくのは止めろ」


 セラは手を振り払う仕草をして精霊たちを怒鳴りつけた。精霊の声が雷の合間に轟く。


「セイレーン様の所にお連れするんだ」


 幼い子供のように邪気のない声。セラはチッと舌打ちした。

 やはりこの嵐は精霊の起こしたものであった。それも絶大な力を秘めた魔物が。


 セイレーンとは海に掬う美しい女の精霊だ。海で死んだ人間の無念から生まれると海で生きるものならば一度は聞いたことがあるだろう。局地で激しい嵐を起こし、船を海に引きずりこみ藻屑とするおそろしい精霊だと。


 海の藻屑の精霊たちが波に乗りながら歌を歌い始めた。



――海に沈む魂となれ、波に飲まれて皆沈め。



どこかで聞いた民謡のように古く寂しい曲調に空恐ろしさを感じた。


「今すぐその歌を止めろ」



――祈りなさい、生きて出られぬよう祈りなさい。



 なおも続く精霊の歌にセラは歯噛みする。苛立って力いっぱい船の縁を叩いた時、一匹の精霊が縁から顔を覗かせた。青みを帯びた透けた体躯で、ガラスのように華奢な手足をしている。ふっくらとした頬は男児のようなあどけなさだった。


「お前、死ぬのが怖いのか」


 そういってくすくすと笑う。


「怖いのか」


 再度問いかける精霊にセラは苛立ちを隠せない。


「お前たちの仲間になる気はない。早く船から離れろ」

「セイレーン様はこの船を気に入った。喜んでいらっしゃる。また来た。大きな船がまた来たと」


 また。この海域で飲まれた船がやはり他にあるということか。


「怖いのか」


 セラは三度目の質問に答えられなかった。


「お前たちは本来自然を司る純真な精霊ではないのか。本当に人々の命を望んでいるのか。邪精であるセイレーンになぜ従う」

「偉大な海の統治者には誰も逆らえない」


 セラは一方の手で縁を掴み、もう一方の手で精霊の胸ぐらを掴んだ。


「なら、セイレーンに伝えろ。セラが話をしたがっていると」

「伝えたきゃ自分で伝えるといい」


 そういって小さな精霊はセラの手から逃れると海へと帰った。同時に船に取りついていた精霊たちがいっせいに離れていく。彼らが波間へと消えた後、よりいっそう船が上下した。


 余りの激しさに目をつぶり、海上に放り出されぬよう力いっぱい縁にしがみついた。一番下がったところで大量の海水を拾い、上がり切ったところで海水をいっせいに撥ね上げた。その後、海がすっと凪いで雷雨と暴風がすべて止んだ。


 船の揺れがぴたりと収まり、目を開けたセラは水平面に神々しい光を見た。太陽が昇ったのかと思うくらい眩しくて目を逸らしそうになるほどの明るさだった。

黄金色に光る海面で、長い髪を湛えた透けるように繊細で淑やかな女性が微笑んでいた。セラは言葉を無くし呆然とした。


 突然嵐が止んで、驚いた乗船者たちが船室の扉を開けてぽろぽろと甲板に出てきた。


「ひっ、セ、セイレーンだ。海の魔物だ」


 セイレーンの姿に皆慄いた。どうやら力あるセイレーンの姿は通常の人にも見えているらしい。悲鳴を上げながら船室へと逃げ込む者もいれば、脱力してその場に屑折れた者もいる。人々の動揺が甲板を揺らした。


 セイレーンは穏やかに微笑みとそっと囁く。


「沈みなさい」


 セイレーンの言葉に突然船を覆う海面がぼこぼこと泡立ち始めた。皆異変を感じ取り、慌てふためいた。


「船が沈んでいる」


 ひとりの言葉に縁から皆海面を覗き込んだ。船体がゆっくりとゆっくりと下がっていく。発狂した者の叫びが重なり恐怖を呼んだ。


「さあ、沈みなさい」


 セイレーンは笑みを湛えたまま両手を広げた。泡立った海水が縁の高さを越えて、美しい水柱となり、それが一気に甲板に注ぐ。波打ち際に押し寄せる波のように柔らかな海水が足元を浸食した。

 セラはこぶしを握り締めセイレーンへ向かって叫んだ。


「オレの身を奉げる。だから船を解放しろ」


 セイレーンが鮮やかに笑う。


「欲しいのは船です」


 船は海へと飲まれた。


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